島に生きる季語と暮らす(31)跣足

 私は跣足(はだし)が好きだ。外出先から帰宅すると真っ先に靴下を脱ぎ捨てる。跣足になるとこころが野性を取り戻し、自由になったような気がする。逆に靴下を履くと、本来の自分が拘束され、どこか不自由な気分になる。

 これは一九五二(昭和二七)年、私が小学生四年の春まで、日常生活において、草履(ぞうり)を履く生活をしていたことによるものと思われる。草履は丁度一カ月で履きつぶした。当時我が家は五人家族であったので、毎月五足の草履を必要とした。夜なべのとき、まず縄を綯い、草履を編んだ。小学生の高学年ともなると、自分の草履くらい作ることが出来た。草履はいくつも作り貯めておいた。近所つき合いの手土産に、米、卵とともに、この草履が重宝がられた。

 草履生活は、別名、跣足の生活でもあった。雨の日登校は草履は濡れて底が抜けやすいので跣足となった。校庭で遊ぶとき天気の日でも跣足であった。運動会の日は勿論生徒全員跣足であった。大人たちも、農作業で田畑に入るときは、跣足であった。梅雨の頃は、連日跣足であった。それゆえ当時一日のうちで跣足にならない日はほぼなかったろう。今こうして書いていると悲惨な感じもするが、なに、われら瑞穂の国の民は弥生の御代から先の戦前まで草履・草鞋・跣足であった。靴の歴史はざっと百年。わたしの胎内に刻み込まれた弥生以来の跣足のDNAは、たかだか百年の靴の時間くらいで消し去ることはできない。

 さて、私は四年生の初夏、母からゴム草履を買ってもらった。この一年前、ランプ生活から電灯のある暮らしへ移ったわが家にとって、ゴム草履の登場は、更にエポック・メイキングな事件であった。ゴム草履は雨の日でも履ける。千年以上も続いた跣足生活から脱したのだ。しかも一足購入すると四、五年はもつ。もう草履を作り貯めておく必要はなくなった。こんなすばらしいものがまたとあろうか。わたしはその時思った。まさしく文明・文化を変える一品であった。

 その後、ズック(運動靴)、ゴム長靴、地下足袋などが、島内に入ってきた。高校には運動靴で通学した。たしか素足のままで履いていたと思う。上京するときも運動靴だった。上京して初めて革靴を購入したとき、革靴を履くときは素足でなく、まず靴下を履き、その後に靴を履くということを教った。以来、学生として、社会人として、靴下を履き、革靴の生活をしてきたが、私は最近ますます跣足への想いが強い。

  夏川や鮒次々にぶつかり来    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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