島に生きる季語と暮らす(40)入学

 敗戦から四年目の一九四九(昭和二四)年四月、沼津村立小学校に入学した。平仮名で自分の名前を書くことが出来ればよい、10まで 数えることが出来ればそれでよいというお達しであったが、入学してみると平仮名、片仮名で52文字全部を書ける者、1000まで数を言える者がいた。私は聖なる学校において何だか最初から騙されたような気がした。

 総じて小学校時代は暗かった。時代は敗戦直後であった。壱岐は当時行政的に一級僻地であった。食料事情、その他が悪かった。また我が家は、中国から引き揚げてきて五年間、無収入であった。 それに私は病弱だった。クラスの誰よりも早く風邪を引き、ご丁寧にも、みんなが完治するころに、もう一度風邪を引いた。入学したてのころ、水疱瘡がはやった。私は真っ先に罹った。水の入ったピンク色の疱瘡が全身に出来た。男の子の大事な先端にまで出来た。この時も誰よりも私が早く罹り、みんなが完治しようとしている時、私は再び罹った。体育の時間はほとんど「見学」であった。男の子にとって、喧嘩が強い、駆けっこが速い、相撲が強いことは、威厳に関わる。私にはこの威厳がまったくなかったのである。

 更に、病弱だから、万事無理をしないことが許され、何ごとも、ほどほどで行こうという考えが生れた。近所の成績のよい子は、私はなぜこんな問題が出来ないと我が身を打擲しながら勉強しているということを聴いたが、私にはその意志・努力が欠けていた。中学になって体力が徐々に回復し、男の子の威厳を少しずつ獲得したが、その後積極的に打って出る自己を徹底的に追及することはなく、今日に至っている。

 出席簿は小学校、中学校とも生年月日順であった。私は三月二一日生れなので順はビリであった。同学年の四月生れの者とは一年近い差がある。病弱である、喧嘩に弱い一因は、この生誕日差にもあったろう。当時、授業をはじめ、何かことあるごとに出席簿順であった。ビリの私に順番が回ってきた時は、態勢はほとんど決まっていた。ビリの私には、いわゆる最初に「当たる」どきどき感が皆無であった。

 私の同学年は四八名。男女とも二四名、一クラスだった。四月、出席簿順に二名ずつ、今でいうスニーカーの無料配給があった。(私たちは四年生まで草履を履く)先頭の男女計四名にスニーカーが届いた時の、残りのクラス全員の、感歎の声、垂涎の眼を忘れることが出来ない。私が念願の靴を手にしたのは二年生なった四月。誰一人、見むきもしなかった。

  引き揚げの背嚢をもて入学す    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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