古志投句欄を読む 2020年6月号

 ①
 現在は非常事態宣言も解除され、事態としてかなり落ち着きを見せている。とはいえ、いまだ油断は許されないだろう。はたして我々が戻るべき日常はどこにあるのだろうか、すでに非常事態が日常と化してしまい、ある見方をすれば以前とは異なった形での、日常が訪れているとも考えられる。
 それは秩序と無秩序という、切り口で言い換えてみると分りやすい。我々は普段、秩序づけられた世界を生きている、それは秩序を脅かす存在を排除することで、または吸収し秩序に組み込むことで、安定が保たれている世界である。コロナの到来は確かに秩序を乱し、生活を無秩序状態に傾斜させた。そのため、社会はコロナを異端分子として排除することで、日常という名の秩序を取り戻そうとする。WHOが「人類の敵」と呼んだことを思い出してもらいたい。そこにはコロナを人類の「外」から到来した存在として、客体化するまなざしがあり、この視点によりコロナは排除可能になるのだ。
 はたしてそれで良いのだろうか。
 現代における「外」とは、文明を内部として、それに対置される形での自然=外部があるという構図ではない。そうした状況はとうに過ぎ去っていて、自然も何もかもが、文明社会という秩序に組み込まれている。
 では「外」とは何を指しているのだろう。前述したように秩序を保つためには、異端分子を排除する必要がある。そこで排除されたものこそが「外」であって、社会はいつでも「内」になる。つまり人間が想定する秩序の側から、意識的に弾かれたものは「外」になるのだ。
 そして、ここで問題にすべきはコロナが「外」から到来したのではない、ということだ。コロナを「外」の存在として弾いたのは我々である。普段は秩序のうちで生活を送っているため、気がつくことのなかった「外」が可視化される契機として、コロナは位置づけられるのだ。

 三・一一海底映る鏡欲し 宮本みさ子

 句意としてはかなり解釈の幅があるだろう。海底の状況を知るための鏡が欲しいと単純に読んだが、そこに尽きない力も感じる。それは鏡という呪術的な物の影響かもしれない。また、福島に住む者にしか分らない部分もあるはずだ。掲句のような句は、現在の非常時に読まれることで、普段とは別の意味が生じてしまう。それもまた、書くことの面白さだろう。
 コロナの件は東日本大震災および原子力発電所の事故と、重ねて考えることが可能だと思う。原発事故はもともと自然=外部であった核分裂を、人間が技術を行使することで、社会の内部に組み込んだ結果の事故だといえる。事故が起こるまで、原子力発電は社会の想定の「内」と見なされて、秩序の「内」で飼い慣らされてきたが、事故によって想定の「外」であったことが分かった。当時の報道で「想定外」が連発されたのも、納得がいく。
 ここでいう鏡はそうした「外」を映しだせる鏡である、と捉えるのは読みの一つとして面白いかもしれない。

 ②
 少しコロナの事から離れてみようと思う。技術的に気になった句をいくつか挙げていく。

 雪吊をさつさと解きて椿かな 泉早苗

 主宰のブログに季重なりについての記事があった。掲句もまた季重なりの句で、個人的に季重なりが成功しているように思う。季重なりの特性の一つとして、季語の情感を打ち消し、モノが現われてくるということがある。
 必要のなくなった雪吊を解く、そして傍らには椿があった。それは季節の巡りであって、生活の実感でもあるだろう。掲句の椿は春を感じられる植物として、かなりモノ的であると思う。モノの反対はここでは言葉である。季語は言葉であり、現実の植物としての椿を示している一方で、これまでに詠まれた椿の句や歌からのイメージを引きずった、情感としての「椿」でもある。
 情感としての「椿」を把握することは、上手い句を詠めるようになるための条件でもあるが、季語になる以前の、モノとしての椿を忘れてはいけない。掲句は季節の変化の発見が詠まれている。生活として雪吊を解くことで、または椿を眼にしたことにより、変化を感じ取る。そのとき雪吊や椿は言葉ではなく、質感を持ったモノとして現実に存在する。即物的と言い換えても良い、そうすると、「さっさと」という措辞がモノを立上がらせる点で一役買っているのが分る。
 巻頭句の〈マスクでは春の匂ひがわからぬぞ 臼杵政治〉も、春が情感の「春」というより、実体をもった現実の、匂いや手ざわりのある春である。この場合は季重なりだけでなく、コロナの状況とリンクして、ということもあるが。

 春の水吸わせてほぐす筆の先 酒井きよみ

 それでは情感を活用した句とはどのような句か。
 涸れていた川などに流れる雪どけの水である春の水は、イメージとして生命力やまぶしさと結びつく。それは〈春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂〉などに詠まれ、禅問答的と評されながら、濡れるほどの生命力が漲る水は、確かに春の水でなくてはならない、とどこか説得感を持っている事から分るだろう。
 力漲る水を吸わせることで、筆の先をほぐす。これから使用する筆に生命力が宿されていく、少しアニミズム的であると言っても良い。きっと良い字が書けることであろう。そう考えると今月号に載っていた〈雪解の水ごくごくと欠茶碗 大場梅子〉も欠茶碗という使いふるされたものと、生命力を湛えた雪解水の対比が面白く、ごくごくという擬音から、体のうちに力強く水が押しこまれていき、飲む者の生命力が増幅していくようで楽しい。

 水鏡のぞくもこはし痩蛙 大平佳余子

 掲句は言葉の持つイメージが上手く調和されていた。水に蛙が飛びこむという構図は、そもそも〈古池に蛙飛びこむ水の音〉である。その構図をもとに、蛙が飛びこむ水は「水鏡」と、歴史物語の題名でもあり、歴史が映る鏡でもあり、または明鏡止水にも繋がる言葉である。そして蛙は単なる蛙ではなく「痩蛙」これは言うまでもなく一茶の〈やせ蛙まけるな一茶これにあり〉からの引用である。つまり掲句は古典の引用や、それによる言葉の空間で書かれているのであり、実景とはまた異なった次元の句であるといえよう。それでいて景としても容易に立上がるのであるが、それは動詞「のぞく」「こはす」によって、蛙が擬人化されている事も影響している。この蛙は現実にいる蛙ではなく、どこか戯画的な蛙になるのだ。掲句はどこまでも実景のリアルから逃れて、句は戯画的な言語空間で作られている。それぞれの言葉が持つパワーを調和するバランス感覚に優れている、巧みな句だ。

 大仏の背のまるさや梅満開 服部尚子

 季重なりと同様に字余りもまた、初心的な指導ではたしなめられるだろう。しかし掲句の下五は「梅満開」でなくてはならない。それ以外では面白さに欠ける。例えば飯田龍太の〈大仏にひたすら雪の降る日かな〉は「ひたすら」の一語が決め手となっているし、それは掲句においても同じで、大仏という大きな世界を背後に秘めた語を用いるならば、大仏に見合うだけのパワーが必要である。掲句は満開のエネルギーはもちろんとして、字余りが過剰であるがためにエネルギーをはらみ、言葉のバランスを保ってくれている。

 探梅やごとんと止る山の駅 田中百榮

 擬音語はともすると陳腐になるか、奇をてらった表現になりがちである。掲句はそれぞれの言葉が緊密に結びつき合って、ひっぱてもちぎれないほど目の細かく、強靱な布を思わせる。探梅でこれから山に登ることが分り、山にはまだ厳冬の様子が残っている。その寒々とした無骨な山の麓の駅には、ごとんと固い音を立てて止る電車がふさわしい。屹然とした態度で山と向い合う心情まで透けてきそうだ。言葉のひとつひとつに無駄がない。

 ③
 当然ながら俳句は技術だけではない、コロナに際してそれを実感した。書く主題がなければ、空疎な句でしかない。
 では主題とはなにか、それは個人によって違うだろうが、ひとつとしては社会から排除された「外」を描くことだろう。この主題こそが、文学における本流だと考えている。ただ「外」は日常という秩序においては、排除され、隠匿されるため、眼にすることは難しい。日常から非日常の側面が暴き出されることの難しさは、例えば梶井基次郎の『檸檬』のような経験をしたことがあるか、と問えば良いのだろうか。自分はまだ、本当の意味でそうした「外」・無秩序とは出遭えていない気がする。ほとんどの人もそうだろう。逆に垣間見てしまったら戻ってこれないのではないか。私小説家は秩序から排除、疎外された「私」の感覚を描いたのだろうし、戦争では常時、日常の「外」となるだろう。素材が揃っていても簡単ではない、洞察の深度や、倫理的な感覚も必要だ。
 現在の情報社会において「外」が口を開いた瞬間を描くことはかなり難しい。それは情報が現実と自分の間にいつも横たわり、本当に知るべき現実を素手で触れられないため。現在、コロナは果たして自分が描くべき「外」なのか、そもそも結局のところ、日常の秩序という「内」でしかなかったのではないか。現在の緊急事態宣言が解除された様子を見ていると、そう思ってしまうところもある。日常の「内」で片付いたのではないか、それは、コロナは想定の「外」であったとしているが、あらかじめ想定に入れておけば良かったと批判する姿勢と同じだろう。結果から遡及して批判するのは、後出しじゃんけんで勝つのと同じくらい簡単だ。いずれ想定「外」は出てきてしまう、秩序の中で日常生活を送っていると見えないだけで、背後にはいつでも潜んでいるのだ。その潜んでいる「外」をあらかじめ暴いておいてこそ、批判は出来るのだ。しかし繰りかえしになるが、「外」は簡単には現出しない。
 また、コロナを書くにしても、どのように書くかが問題となってくる。そのヒントになりそうな句を、自分なりに挙げておきたい。

 囀の孤独に耐へてゐるらしく 軍地四郎

 人間が何もかもを秩序に組み込む以前には、文明と自然の二項が設えられた。さらに言えば、その二項は根源を同じにしているのだろう。渾然とした感覚である。短絡的に過ぎるかもしれないが、掲句にはその感覚がある気がする。囀を聞いて、孤独に耐えるため啼いているのだろう、と想像した主観の句として片付けることもできるだろうが、明らかに主体もまた孤独であり、囀りへの接近がある。

 春日受く躰ありけりありがたし 神蛇広

 情報社会では体を持っている実感を失う。コロナ禍で籠っているときに、本当に実体があるのかと疑わしくなったりもした。現実から遊離した感覚だ。コロナの当初が衝撃的であったために、なおさら。
 体は精神の檻として、精神の活動を制限してしまうと考えられたりする。そして情報技術は体による制限を少なくした。同年代と話していて、体を捨ててしまいたいと言う人が少なからずいる。その一方で掲句、躰をありがたいという。春日が降りそそぎ、それによって躰があることを実感している。充足感、肯定があり、これで良いのだという気持ちにさせられた。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。短詩ブログ「帚」 http://houkipoetry.com/

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