一昨年、二○一八年の夏から冬へは、猛暑がだらだらと続き、一気に冬へ突入したような気候だった。スコップ一本で五十四平方メートルの家庭菜園をやっていた私は慌てて耕し、整地して秋冬野菜を植えつけたが、残念ながら時遅し、大好きな白菜、キャベツは結球せず、ブロッコリー、カリフラワーは実のらなかった。おまけに短期間に、急激に根(こん)を詰めたためか、腰痛を抱え込んでしまった。悩んだ末、昨年、春野菜を最後に畑仕事を辞めることにした。
畑仕事は幼い頃から慣れ親しんできたことだった。子ども時代、一家が食べる野菜は家から十歩すぐ前の畑で作っていた。朝、母は味噌汁を作りながら私に「葱を畑から取っておいで」と命じることがあった。終の棲家を所沢に決めた一因には将来畑仕事をしたいという気持ちがあったし、更に言えば、どこかに望郷の念、母恋いの想いがあったかもしれない。
畑仕事をやめて最初に感じたことは、店先の野菜の値段が高いこと、もう他人に野菜は進呈出来ないという二つであった。畑仕事をしている時は、夫婦でたらふく食した上、収穫の半分以上を近所の親しくさせていただいている方々、それぞれ別れて暮らしている子どもたちに届けていた。ところが、これまで何気なく野菜を差し上げて“善人”ぶりを演じていた私の役がないのに気づいた。子どもたちには、馬鈴薯や玉葱を送っていたが、これからは出来ないと思うと、予想もしない空白感が沸いた。
最後に手土産について想った。私の子ども時代は、他人の家へ用事で行くときは、何か手土産を持参した。終戦直後、最大の価値ある手土産は、布袋に一升前後の米を入れ、そこへ生卵を三~四個入れたものだった。米の替わりに小豆や大豆などのときもあった。布袋は三~四袋は常備してあった。そのほか畑から今、収穫したばかりの野菜、穀物、庭に実った果物、魚、到来物、作り置きの日常履く草履などがあった。子どもの私が使いで隣家に行くときでさえ、手土産を持参した。幸い先方が在宅のときは、そのお返しとは別に、子どもに飴玉や軒に干してある吊し柿などを貰うことがあった。
私の今住む集合住宅で密かなる争いが起ったことがある。私は公認の使として、各人の主張を聴き、調整することを一任された。両者の言い分を聞くうちに、彼らは今まで挨拶も、ましてや手土産さえ一度も交わしたことがないことが判明した。私は、まず挨拶と手土産の再考を勧めた。
春耕の骨肉きしむうれしさよ 靖彦
園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。
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