古志投句欄を読む 2019年12月号

今月号の「秀作を探る」において、主宰が〈老が身の値ぶみをさるるけさの春 一茶〉を引き、お金という尺度で価値判断される傾向が、現代により顕著になっていることを示した。お金に限らず、誰かにものさしを当てられ、価値や能力を測られることは、偏差値など往々にしてある。こうした現代の傾向に資本主義の影響をみて、非難することは容易いことだろう。しかし、主宰が「われわれはどう詠んでいくべきかを試されている」と文を結ぶとき、現代を非難することに力点をおいているわけではないように思う。問いかけは「俳句に何ができるか」ではなく、「どう詠むか」なのだ。ここには肯定がある。

  墓洗ふ桃の畑のどまんなか  篠原隆子

 時間と空間の広がりを感じさせる優しい句。どまんなかと俯瞰した目線から思い浮かぶのは、山間に向けて高速道路を走っている時に見る、畑にぽつんと墓が建っている風景。区画整理のため、墓を元あった場所から移転せざるを得なかったとも聞く。先祖から受け継いだ土地に父祖の墓、脈々と繰り返されてきた生活を背景に桃が実る。桃は柔らかな色と丸いフォルムから優しい印象をうける。また、古来より不老長寿の果実として珍重されていたという。過去と現在をつなぐ畑のどまんなかで墓を洗う、季語が先祖への慈しみを引き出す。

  衣食住足り八月の空に雲  北林令子
 
この句もまた背後に時間の流れが聞こえる。かつて衣食住が不足した八月があった。焼け跡に飢えて、生死を曖昧にさまよう。その時も今と変わらず雲は浮かんでいたか、浮かんでいたことだろう。ただ悠長に空を眺めているほどの余裕はなかったに違いない。
こうした生の実感がある句に出会えると、前回の「投句欄を読む」で関根千方さんが「戦争を知らない世代が、それをどう詠み継いでいくかということは、今後の大きな課題である」と記していたことを思う。戦争が遠くなってしまった世代に、想像力でこうした句が作れるか。現在の状況から過去を透かしてみることも、誠実な向き合い方のはずだ。
蛇足になるが、大好きな小説の一節を紹介させていただきたい。

……或る男がいて、或る美しく晴れ上がった日、碧空に見た白い機影が忘れられない。青空を切り抜いて、その奥の無限の世界を覗かせているような白い機影が。それは、その男の生命を奪うかもしれない機影である。機影は男に依って次第に幻想化されて行く。機影を見るとき、否、想うときですら、彼は生と死を二分する一瞬に怖しい期待と、同時に怖しい歓びを覚える。 ――小沼丹『白い機影』

  語られぬ言葉拾はん敗戦忌  池田祥子

切実に響いてきた句。戦争経験を語れる人が減ってきている現在、できる限りその言葉を残して、想いを引き継いでいくことが必要になる。しかし、語られた体験は戦争のごく一側面であり、肝心なところはそれぞれの胸の内に秘められる。精神に傷を負った傷痍兵士が重たい唇を開いて、自らの戦争体験を語るだろうか。ありがたいことに太平洋戦争以降、日本は戦禍に見舞われていない。しかし、戦争の後遺症というべき問題は山積みになっていて、それもまた語られる範囲でしか認知されていないのが現状だろう。言葉を拾わなくてはならない。
そして拾い集めた言葉をわれわれは句にしても良いだろう。

  はらわたに醸す言葉や初紅葉  西川遊歩

  豊饒の言葉こぼせし柘榴かな  わたなべかよ

重要なのは簡単に書いてしまうのではなく、言葉を自分の中で熟成させてから、句にしたためること。とはいえ、醸せば醸すほど言葉が洗練され、書き味があっさりとすることもある。それは簡単に書いているように見えて、味が詰まっている句だ。
下句、一読して内容が取りづらかったものの、言葉の連関に引かれて繰りかえし読むと、下書きに〈露人ワシコフ叫びて柘榴打ち落す 三鬼〉が置かれているような気がした。叫ぶとこぼす。心の沃野に秘められた想い豊かな言葉は、ぽつりとこぼれていく。そしてそれを受け止められるのが俳句という沈黙の詩形。
投句締め切りの都合、終戦や盆を素材にした句が掲句を含め多かった。どちらとも人を悼む心が重要になる。

  針箱に釦をためし母の盆  南川閏

この句は、何気ない思い出が心の内で熟成され、言葉となっている。針箱に釦をためている母を見たとき、何を思うだろう。はじめ見たときは不思議なことをしている、くらいの感想だったのではないか。しかし母が亡くなり、ふとした拍子になんでもない昔の不思議な光景が思い返される。この思い返す行為こそが悼むことに違いない。かつて裁縫は女性の重要な手仕事とされていた。父の盆にはならない。垣間見える時代性、そしてこれから。

ここまで古志の投句欄を読んできて、はじめの「どう詠むか」という問いに立ち戻ったとき、練られた心情から出てくる言葉の多さに目を瞠る。そして「詩は心をゆたかにする」という文句を思い出すが、果たして自分自身、どれほど信じられているか。しかし、心の側から必要とされた表現は、詠む/読む者どちらにとっても幸福であると確信した。この「心の側から」というのが古志の句に多い特徴のように思うのだ。

  燈籠や心しづかに水に置く  佐々木まき

掲句を〈ふなばたの流燈おろす手が見ゆる 爽波〉と比べれば、句の仕立て方の違いが分かる。どちらとも心が宿る佳句だが、内なる心の目で水に置くという自らの動作を見つめて詠むか。それとも、流燈をおろしている外の動作から、心の内に回帰して詠むか、ベクトルの方向が異なっている。
EQという心の知能指数を測定する指標がある。いったい測れたところで何の意味があるか分からない。ここで飴山實が唱えた〈心音の聞こえる句〉を持って終わりにするのは、なんだか収まりが良すぎる。
最後にどうしても触れておきたい句の幾つかを挙げる。

  山一つ先より響く花火かな  鈴木一雄

音だけが届く花火の情から詠まれている。鮮やかな色は見えず、目に映るのは夜の闇をさらに濃くする山が一つ。花火の音と静寂に際立つ山の存在感。一つがわざとらしくならない。

  鉦叩銀の梯子をかけるかに  元屋奈那子

読み下した後、変な質感だけが残る。銀色の硬質な音。駆けるか、掛けるか、どちらにしても硬い感触が句に満ちる。k音が気持ち良い。 

  鮎急くや流転の錆をまとひつつ  加田怜

産卵を終えた鮎は次の生へ流転していく。錆は時間の蓄積がなくては生まれない。ゆっくりと、しかし鮎は急いでいる。この急くは鮎の動きだけではない、心の焦り。時間は思うようにいかないものだ。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。

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