島に生きる季語と暮らす(28)花むしろ

 父を亡くし五十年、母を見送り二十年近くたつ。この間、親及び親世代に確かめておけばよかったということがいくつか浮かび上がって来た。その一つに壱岐の酒席で使っていた盃がある。当時、公民館、コミュニティセンターなど完備しておらず、冠婚葬祭、会合は、自宅で行われていた。その席では当然のように酒を汲み交わすが、その盃が子供ながら気になり、回答を得ぬまま今日まで来た。実は社会人三年くらいの時に帰郷し、その盃を無作為に五つ持ち帰った。

 (1)銀文字一色。「征露紀念」と中央に大書。日章旗と旭日旗の組み合わせ。下に「歩兵○○」。横に「柳原」の苗字
 (2)盃の周辺は金色。赤色の赤十字マーク、銀文字の「退営紀念」。日章旗と桜。横に「牟田」。
 (3)盃の周辺は銀色。日章旗と旭日旗は赤色。青緑の葵の葉。「歩兵隊四十六聯隊」。横に「田中」。
 (4)二色。中央縦に「東洋平和に○と銃剣」の墨文字。上部横に「支那事変凱旋紀念」。桜、銃剣、鉄兜のカット絵は赤、
 (5)盃の周辺は銀色。「軽き身に重きつとめと○○○○○○○○○○○○今日の嬉しさ」「清水」

 たまたま東京へ持ち帰った五つの盃から読み取れることは、少なくとも日露戦争頃から、壱岐の従軍者(明治維新以来の戦没者は一九五二名)たちは、これら盃を入除隊に際し近隣の親戚、知人に配っていたということ。当時わが家にはざっとこの種の盃は約百前後あり、少なくとも私が社会人になる一九七○年頃までは、冠婚葬祭の際常用していたこと。最大の疑問点は、私が幼いときから大人になるまで、この盃の周辺にいたが、意図的か偶然か、この盃について、誰一人、口裏を合わせたように、一言半句語らなかったことである。

 私の編集者時代、懇意にしていただいた方の一人にノンフィクション作家、歌人の辺見じゅんさんがおられる。辺見さんは、角川源義氏の長女である。辺見さんが父上にもの書きになりたいと初告白されたとき、源義氏は、地方に埋もれている子守歌を採取するように助言されたそうだ。父上の教えを忠実に守り地方を執拗にめぐるうちに、辺見さんは「銃後の女たち」というテーマを発見される。それは、やがて『男たちの大和』『収容所からきた遺書』などの一連の大作となる。

 私は辺見さんならば、きっとわが盃についてご存じであろうと実物をお見せした。答えはなんと「初めて見た」であった。私は永遠に回答者を失ったのであった。

  先生は昼寝大好き花むしろ    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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