島に生きる季語と暮らす(37)年玉

 私は年玉を貰ったことがない。正月は足袋、靴下、手袋などの小物の衣料品、鉛筆、ノート、消しゴムなどの学用品を貰うくらいであった。先にも述べたとおり、わが家は中国から引き揚げて来て五年間、定収入がなかった。また敗戦直後、第一級僻地と認定されていた壱岐は疲弊し尽くし、どの家も子供に年玉を与える余裕などなかったのだ。ただしその後比較的豊かになっても、ついに私は年玉を貰うことはなかった。

 これには、訳があった。我が家には、今で言うプリンシプル(原則)があったようだ。私が小学校高学年ときに母に告げられた。これは母(私にとっては祖母)に教わったことだが、我が家では、お金は他を節約してでも、子供の教育だけには第一義的に使うと母は言うのだ。これはいわば貧しい暮らしの中での一点豪華主義的生き方といえよう。

 母は六人兄弟姉妹の第一子として生まれた。そして当時創設されたばかりの(旧制)高等女学校に学ばせてもらっている。その頃村の同級生で高女に進学する者は二~三人くらいだったという。一町二村を横断し、片道三時間前後を徒歩で通学している。私の代でも同じだったが、当時の風潮として、勉強する子よりも親の仕事を手伝う子がよい子、女子には学問は要らないという考えが根強く厳然とあったと思われる。女性は嫁すと、朝早くから夜遅くまで、牛馬のごとく働き、牛馬のごとく健康な子供を多く産むのがよい嫁とされていた。姑は死ぬまで財布の紐は嫁に渡さないのが普通であった。

 貧しい家計のなかで、六人の子供を一人残らず高女、中学に学ばせるには、確固たる信念・理想がまずあり、次ぎに経済的な力、工面が必要であったろう。母の末弟、末妹は、戦後東京の大学に学ぶ機会を得るが、祖母たちは先祖伝来の田畑を売って学費に代えている。実は父方は五人姉妹兄弟であった。こちらも第一子は女性、母方と同じように一人残らず(旧制)高女、中学に学ばせさせて貰っている。父方、母方の両家が子供を一人残らず、創設まもない高女、中学に学ばせたというケースは、戦前の壱岐では稀であったろう。

 両家の叔母叔父たちは卒業後、ほとんどが教師になった。私の母も教師になった。結婚して中国に渡ったが、敗戦後、郷里に戻り、教師に復職し、苦しい家計を助けた。私もその恩恵を十二分に受けた。私たちの代の従兄弟従姉妹たちは、とりわけ教育だけには金を使うという三代前の遠謀深慮に支えられ、ほぼ全員が大学まで学ぶことが出来た。

  催促が顔に出けりお年玉     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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