古志投句欄を読む 2021年6月

 やすらかに目を引かれたる雛かな イーブン美奈子

雛の切長のまなこを見て、「やすらかに目を引かれたる」とはなかなか言えないのではないだろうか。雛の目が描かれるときの筆先の繊細な動きまで感じられる。まだ目のない雛は、おそらくじっと真っ白な顔を差し出していたことだろう。

 狼藉の僧いまいづこ芽吹き山   渡辺竜樹

「狼藉の僧」とは武蔵坊弁慶のことだろうか。とすると「芽吹き山」とは比叡山だろう。信長秀吉以前、中世の寺院は武装化されていた。芽吹きはじめた山を見ながら、今ここにないものへ想いを馳せている。

 車椅子押して花びら浴びしころ  鈴木一雄

おそらくもう車椅子を押すこともなくなったのだろう。ひとり花びらを浴びて、そのころのことが甦ってきて、車椅子の主を思い出している。この「車椅子」は読む人によって様々な人に成りうる。

 春風となりてとなりに寄り添はん 辻奈央子

この句も余白が大きい。作者を見ると、赤子に寄り添う母の句とわかるが、これは読む人によって、様々な関係に置き換わる。たとえば、軍の弾圧が激しくなるミャンマーの市民へ向けた世界中の声にもきこえてくる。

 恋猫となれぬは哀し膝に来よ   小島楓
 家からは出してもらへぬ恋の猫  斉藤真知子

我が家も猫を飼いはじめたが、室内飼いである。もちろん避妊手術もしている。ひと昔前まで猫は家の内外を出入りしていたが、現在は猫エイズや白血病など病気のリスクを避けて、室内飼いが推奨されている。現代ならではの猫の悲哀。

 縦書きの国へ紅梅しだれけり   吉冨緑

漢字圏の国はそもそも文字は縦書きである。西欧化というよりも情報化の影響が大きいが、いまや中国語は縦書きが廃止され、横書きが普通である。しかし重力が上から下にかかるように、「縦書き」でなければ味わえない感覚もある。作者はそれを失いたくないのだろう。

 愚かなる我を見てゐる梅の花   藤原智子

「愚かなる我を見てゐる」のは誰か。言葉の並びからは「梅の花」となるが、そこで切れを入れて読むと少しニュアンスが変わる。「梅の花」は、おそらく自身の中にいる他者であって、作者はその他者のまなざしを感じているのだろう。

 水ぬるむ池に浮ぶはレジ袋    那珂侑子

水に浮かんだレジ袋の情けない姿は、まるで現代人の姿そのものではなかろうか。温んでいるのは水なのか、人間なのか。プラスチック汚染とは人間汚染ではないのか。そんなことまで思わせる句である。にもかかわらず、余計な言葉が一切ない。

 蝶の昼今来た道を忘れたる    玉置陽子

蝶の句であるが、今来た道を忘れてしまったのは作者か、ほかの人間であろう。一句の中にペーソスとユーモアが紙一重で共存している。

 厚氷芥も石も泥も噛み      石垣敬子

ギシギシという音がきこえてきそうだ。「噛む」と言ったことで、感覚で伝わってくるものがある。苦虫を嚙んだような厚い氷の断面が目に浮かぶ。

花びらをつけて戻りし恋の猫    平有里子
白魚の細き骨まで透けにけり    山下充子
花散りて骸に戻る臥竜梅      北野沙羅
思い出は飛び飛びに来るしやぼん玉 岩崎ひとみ

といった句もすっきりと詠まれていて、感銘を受けた。

関根千方(せきねちかた)
1970年、東京生まれ。 2008年2月、古志入会。 2015年、第十回飴山俳句賞受賞。2017年、句集『白桃』[古志叢書第五十篇](ふらんす堂)。古志同人 。
Twitter: @sekinechikata

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