古志投句欄を読む 2020年8月

 汗拭ふ見えないものと戦ひて 乃木多美子

 コロナ禍という現在の文脈で「見えないもの」は、すなわちコロナウイルスとなる。しかし、もっと普遍的なところを言い止めてないだろうか。怒りにしても、悲しみにしても、やり場があるだけマシである。実体がないものと戦ったところで、空気を殴っているようで返ってくるものがない。やっていることは阿呆くさくなるし、傍目からは滑稽に見える。見えないものと戦い続けることは困難を要する。だからこそ分りやすい敵を仮想して戦おうとする。陰謀論のように大きな敵ならば、なるべく徒党を組もうとする。それは当てつけの様相を呈する。問題にすべきポイントがズレていく。掲句は下五・中七と抽象的に陥るところを、上五「汗拭ふ」にすることで身体感覚に引きつけて詠んでいる。心理的要因からくる汗も思い起こさせ、体の内と外の境界がくっきりとする。見えないもの。それは人の内側深いところで湧くかもしれない。眼を背けたくなるが、戦い続けなくてはいけない。

 香水や家を出ぬ日も女の子  森凛柚

 「女子力」という言葉がある。趣味がお菓子作り、または掲句のように家の中で香水をつける人は「女子力」が高いと褒められる。一方で、ずさんな人やメイクをサボるような人は「女子力」が低いとして笑いの対象になる。自虐的に用いることもある。なんと生きにくい世の中だろう。「女子力」は社会的風潮として女の子はこうあるべきだ、と理想像を押しつけているに過ぎない。社会の期待通りに生きる必要がどうしてある。社会の側から女の子らしくすることを要請され、家の中でも女の子らしくと香水をつけてしまう。こうなると病である。女の子らしい振る舞いをしなければ白い眼で見られる。学生らしくあれ、男らしくあれ、世間の眼にさらされて生きる。掲句は新しい視点というよりも、議論されてきた視点から現在を切り取ったものであるとはいえ、書かれることが大事な句である。

 諸葛菜汝も大陸出身か    原京子

 生まれ故郷が外国になる。根付いていた土地から、根っこを切り離される。自らの意志ではなく、突然。そのとき自分は何者であるのかの問いが発せられる。書くことで自分を見つめ直す。満州、大連それは戦後文学の大きなテーマであった。掲句は諸葛菜と対峙して、諸葛菜に汝と語りかける。これまでの苦労と、滲み出る優しさを感じる。自分には到底分かり得ない感覚であり、こうした句の評に迷いを感じる。しかし、当時の文学を読むときの読み切れなさ、それでも胸をうつ肉声を大事にしたい。これもまた、書かれることが大事な句である。

 卒業歌沖に大きな船の行く  甲田雅子

 眼の前の景色は開けている。水平線までくっきり見渡せ、大きな船が海を横切る。船はゆっくりと動く。緩やかな時間の流れと、茫洋とした不安。果てしもなく広がる海に、卒業してからの人生が重ねられる。卒業歌を遮るものは何もなく、声はどこまでも延びて、消えていく。先日、テレビで「コクリコ坂から」が放映されていた。六十年代の学生たちの熱い連帯感、またその父親世代――戦争で死ぬ、人生はそこで打ち切りだと考えていた世代の連帯感が描かれる。美化されている部分も多くあるだろう、しかし憧憬をもってそれらの時代を眺める。映画の最後、父親世代が卒業写真を撮る回想シーンがある。そこで、こんな言葉があった「貴様ら、俺より先に死ぬなよ」そして夕焼けの中、水脈を引いて船は進み、エンディングが流れる。掲句は青春の鬱屈としているけれど貴重な一コマを紡ぎだす。

 雑巾を掛けて足裏に夏来る  神谷宣行

 廊下がまっすぐ伸びている。滑らないように靴下を脱ぐ。足裏がはねて、雑巾の通ったあとを踏む。皮膚で濡れを感じる……現代は雑巾掛けをすることが少なくなった。そのため雑巾を掛けてと書かれた時点で、寺や道場、田舎の家と景が限定される。盆に親戚が集っている。子どもらは元気よく、廊下に雑巾を掛ける。夏の日射しが廊下を照らす。久しぶりに会った従兄弟が思ったよりも成長している。穏やかな空気が家を充たす。そんな郷愁をもたらす光景が浮ぶ。

 家々や堺さらしの鯉のぼり  間静春

 晒しは多分、織物の晒しだろう。しかし、ここでは雨ざらしのさらし、つまり堺さらしになっている鯉のぼりで句を鑑賞したい。堺という街にさらされる。堺の匂いを一心に受け、堺という街で生活する。土地が持つ気分の中で、風にひらめいている。ある土地で育った人には、その土地特有の感性が無意識裡に熟成される。堺にさらされた鯉のぼりもそうだろう。家々という上五からは、世代を超えた時間の流れを感じる。家庭や地域ごとにお雑煮の作りが異なるようなものである。堺の気分が連綿と受け継がれていく。
 
 錦木の小さな花に蜜蜂よ   藤原智子

 錦木の花の一つに焦点が絞られる。花の一点に集中していき、花だけがくっきりと眼にうかぶ。その花に蜜蜂がいる。翅をふるわせ、じりじりと歩く。小さな世界が拡大されていき、一箇の箱庭となる。動きが微細に観察される。時間が緩慢になる。錦木の花と蜜蜂だけの空間、二つのモノの間の磁場が見えてくる。自然の姿である。そして「よ」と感嘆することで、最後は作者の側に引きつけられる。うっとりとした、小さな呼吸。息が錦木の花と蜜蜂にかかる。小さな世界にのめり込んでいく。

 潮招大見栄切りて後ずさり  眞田順子

 潮招の所作に人間味を見出す。それが大見栄を切ったあとの気恥ずかしさというのだから可笑しい。掲句のような句の危うさは、人間の型に嵌めて世界を認識していないかである。人間の論理抜きに自然は存在するだろうし、自然と対峙する態度として不誠実なものになりうる。掲句は自然に人間臭さ、それも俗臭を見出すことで、人間のどうしようもない部分、強い表現をとれば傲慢さを見せつけられている気分になる。そこがおかしみに通じる。

 ここしばらく俳句を読むことが出来なかった。句の良し悪しを振り分ける基準が、自分のなかで消滅した。どの句を読んでもそこそこ感心するし、よく分らないとも思う。分らないというのが怖い。これまで悪句と考えていた句も、作者には面白い勘所がどこかある。それを感受するだけの読みの幅が、自分にないのだろう。分らない句をなるべく、面白がろうとする。それで、疲れてしまった。句の良し悪しを自分のなかで振り分けられず、迷子になった気分だった。そして、そんな迷子に俳句を詠むことが可能だろうか。自分の句の良悪すら分らないのだ。

 今回、自由に読むことを心がけた。結局はこれまで通りの好きな句ばかりを鑑賞していたと思う。俳句は先行句とのつながりで読まれるし、詠まれる。だから、これまでの句と比べてどうかという点に執着してしまう。もっと自由に、読むことが出来るはずだ。そして、それが視野を広げる結果に繋がる。多様な句と出会えることを純粋に楽しむ、そんな心持ちでいたい。

……原稿が遅くなったことの言い訳として、記しておきます。はやく対面で句会が出来る日を楽しみにしています。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。短詩ブログ「帚」 http://houkipoetry.com/

One Comment

  1. 森 凜柚 said:

    句を取り上げてくださり、ありがとうございました。
    自分にはない視点での鑑賞で、気付かされることもあり、
    思いがけず句が深いものとなり…
    とても嬉しかったです!
    今後も応援しています^^
    楽しんでいきましょー

    2020年9月30日
    Reply

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