古志投句欄を読む 2020年4月号

意識だけが浮ついて、しばらく現実とのピントが合わない時期があった。なにか出来事を目の当たりにしたところで、すぐさまぼやけてしまい、自分の内側まで響いてこない。それから意識と現実をつないでくれる綱や、自らを支える軸を手に入れるため、躍起になってみたのは良いものの、見えにくい現実にそれらを探していたためか、見つかることはなかった。

   地に足を詩に翼を初御空 鬼川こまち

 今月の巻頭句。はじめの文章は足もとを見失った状態で、地に足をつけることの困難さを大げさに言ってみた。堅実な句を作ることは、自分も含め初学のころは志さなくてはならないだろう。しかしそればかりに意識が集中してしまっては、句がつまらなくなり、そのうえ俳句を詠むこと自体がつまらなくなる。しかし翼ばかりでは実が伴わない、難しいことである。

   家ぢゆうの床も柱も淑気かな 橋詰育子

 掲句から地についた生活の充足感が伺える。淑気という季語はもちろん、家の基盤である床や、家を支える柱に淑気を見る、というまなざしが伸びやかで、めでたさを実感あふれるものにしている。そうした家空間に住む人物は、家の幸せの内側に溶け込むようにして、安寧の日々を過ごしているのだろう。家または家族はやはり、生活の基礎であり、より所に違いない。橋詰さんのほかの句、たとえば「水仙のみな傾くや風のあと」や「犬の子の出ては入りては枯葎」は写生が利いていて、表現として安定している。こうした表現の確かさから、掲句は生まれたのだろうと思う。

   宝船乗りそこねたる寝覚かな 田村史生

 田村さんもまた充足した生活が背伸びされず、そのまま句になっている。乗りそこねたことを多少は残念に思いながらも、悔しがるのではなく、おかしみに持っていく。これは生活に余裕がなければ、そう簡単にできることではない。「日記果つ明日あることを疑はず」から、未来の明るい生活への信頼が、そして「洗ふ干す取り込む畳む年暮るる」からは、日々の行動ひとつひとつを大事にする意識が、丁寧に句にしたためられている。前向きである。

   亡き人のなまじぬくとき手紙かな
   初氷いのち吹き込む笙の音    安藤久美
   幼子に書かす賀状やわれに宛て
 
 この三句は連作として読みたい。それぞれ人と人とをつなげる物が中心になり、生死や命についての視線が表白されている。一句目、ぬくときが、自身にとって身近な存在であったろう人の、生前のあたたかさを想起させ、同時に亡き人を偲ぶ気持ちの温さまでを感じさせる。手紙という思いを伝えるアイテムが、それゆえ物語性をはらんでしまい、過剰に劇的になりやすいのだが、ここでは効果的に作用している。田中裕明の、師である爽波の句を踏まえた「水遊びする子に先生から手紙」の人生観を思い出し、なまじぬくときという表現に、手紙の物としての具体性がより出ていて、掲句も良いなと思う。そして二句目、ぬくときと詠んだ一句目とは違い、この句は初氷、つめたいものが取り合わされている。温度差が面白い。そして笙の音はただの音ではなく、いのちが宿った音であるのだ。そうした音は聞く人の心にも響く。吹く人と聞く人の魂をつなげる音が聞こえるようだが、それも笙の笛という風流なアイテムと、初氷がもたらす、辺りのひきつめた静寂の効果であろう。最後の句は、自分に宛てて幼子に賀状を書かせるという句だが、連綿と紡がれる人の営みを思わせる。親から子へ、そして親から子へと、言葉や風習は受け継がれていく。そして一句目のように死んだあとでも、思いを伝えることは出来るのだ。それぞれ一句として面白く、まとめて読むとなおさら面白い。

   札納神も仏も一つ火に 篠原隆子

 お焚き上げの景だろう。一つ釜の飯を食うや、裸のつき合いという語があるように、共同ですることは仲を親密にすることでもある。ここでは一つ火に、と神と仏が同じ火にくべられている。人を超越した偉大な存在が、さほど大きくない火のなかで、仲良く混然としてる。それは思うに、日本的な状態であり、神や仏への信仰が薄くなった現代の詠み口でもある。

   仙人も淋しからんや冬の蝿 濱岡之隼

 まずは自分自身の寂しさがある。それを仙人が山奥で暮らす孤独とつなげることで、句の懐が広がり、抱える寂しさが軽薄な感情ではなく、切実な表現に見える。実際に神に近いような仙人が寂しさを感じるかどうか、ここではあまり重要ではなく、わざわざ仙人を引き合いに出さなくてはならない、自らの寂しさが強調される。現実から飛翔した詩の一側面であると思う。そして冬の蝿という取り合わせが、大と小または虚と実の対比を成していて、句や感情に奥行きを与えているのだ。

   浅草を知りつくしたる懐手 金澤道子

 盛り場として人びとを惹きつけてやまない浅草の魅力とは、どんなに遊んでも知りつくせないことにある。それは多種多様の物や人、文化がこみ入った現在の状況もあるだろうが、何よりもその浅草という土地に重なる歴史の厚みにおいて、であろう。掲句、知りつくしてたと言っても、それは表面的な浅草であり、表面をさらっただけで、知りつくしたと自慢げに懐手をする人物はいじらしくもある。地方から都市に人が移動した明治末から大正時代、浅草は都市に上手くなじめなかった人の受け皿であったとも聞く。とすると懐手をする人物は、同郷の上京したばかりの人に対し、自分の不安を押し隠して、先輩面の得意げになっているように見えてくるのだ。

   美しき人らしからぬ嚔かな 高山薫

 嚔の読み方として美と醜を対立させることは常套的である。それでも掲句は、嚔についてなにも描写されていないにもかかわらず、その勢いや、音の大きさを感じさせる点で面白い。それも、美しきという形容だけで読ませるのだから、ある意味ローカロリーな句である。果たしてなにが美しいのだろう。容姿か心か、それとも別な部分か。読み手に解釈を委ねるからこそ活きる句である。

 現在、世間はコロナで大騒ぎしている。テレビや新聞も見ずに、家にこもっていると世間から遊離していく。漂っている気分だが、かといってマスコミの情報を手にすることで、地に足をつけることになるのも、なんだか少し不思議な気持ちもする。あまりに過多なメディアを目にすると今度は情報に押し流されてしまう。しかし、ある程度見ないわけにはいかないだろう。そして、今の状況を句にしようとするなら、遊離するのでも流されるのでもなく、自身の感覚で現在を切り取る。それだけの知見と、確固とした自己に立脚する必要がある。それとも詠むことでこそ自己が発見されるのか、とにかくは小手先の句にならないように注意したい。

ふたたび健康に、句会等でお目にかかれる日を楽しみにしています。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。

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