島に生きる季語と暮らす(11)鯨

江戸末期、日本近海には鯨が大量に出没していたことをご存じだろうか。一八五三(嘉永六)年、ペリーが開国を求めて浦賀に上陸するが、ペリーの開国の第一の要求は、日本の近海までも出漁していた自国捕鯨船団への燃料、水、食料の補給であった。かれらは石油以前の灯油である鯨油をもとめてはるばる日本近海まで殺到していた。いわばアメリカの捕鯨業が日本の開国をうながしたと言えるだろう。

 当時、日本は鎖国中で遠洋捕鯨の技術は発達していなかったが、九州では捕鯨が盛んであったようだ。その痕跡、話がが今でもあちこちにある。壱岐を治めていた平戸松浦藩は藩営の捕鯨船団、鯨解体工場を持っていたようだ。一七一○(宝永七)年、芭蕉の高弟・河合曾良が幕府の巡見使として来島するが、彼が客死した先も、当時壱岐一の捕鯨業の網元の家であった。

 戦後、私たちは中国・大連から両親の郷里である壱岐に引き揚げてくるが、農家といえど食料は逼迫していた。野菜、穀物はなんとか摂ることは出来たが、肉類は鶏と鯨に限られた。特に鯨には御世話になった。背肉や腹肉の赤肉は今でいうステーキに代用、白肉、即ち脂肪部位は、細かく賽の目に切り、細葱を刻み味噌汁に入れた。冬の朝、脂は味噌汁の表面に浮かびあがる。すするとほんのり鯨の匂いがして美味い。

 私の好物に通称「さらし鯨」がある。鯨の尾ひれの黒い皮に白い脂肪層をつけた部分を約二ミリの薄切りにし熱湯で湯がき、醤油、酢みそで食べる。この約二ミリ幅のスライスは歯が丈夫でなければ、容易には噛み切れない。ちょっと格闘するがその格闘具合がよい。この「さらし鯨」は今でも壱岐の祝い膳に鰤の刺身とともに当時のままに出される。長じて私は壱岐を出て、「さらし鯨」をあちこちで食べることになるが、どれも壱岐の味とは一段味が落ちた。根本的な違いはスライスの厚みにある。壱岐以外の地ではほとんど一ミリ前後だ。熱湯をかけると、しわくちゃの鼻紙のように縮み、しかも熱湯が付着しやがて水になり、食べるときに水っぽい。

 これに対し壱岐の「さらし鯨」は厚みが二ミリ。熱湯をかけると一度ぶるんと身じろぎ、更に注ぐと再びふるえ、最後は熱湯をはじき飛ばしてしまい、食べるときに水っぽくない。この二ミリのスライス幅は壱岐独特のようで、幼い時のままの味を保っている。私にとって壱岐の「さらし鯨」は、戦後の貧しい時を支えてくれた、恩義にあずかる脂身であり、母の味でもある。帰郷すると鰤の刺身とともに必ず賞味する。

  躍り出て鯨は月を飲まんとす     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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