島に生きる季語と暮らす(38)皸

 手の甲を表にして十本の指を広げると、私の両薬指の付け根には一円丸より小さい丸い傷痕がかすかにある。これは私が小学校に入学する前後、両薬指に出来た霜焼けの跡だ。辞書には、強い寒気にあたって局所的に生じる軽い凍傷、赤くはれて痛がゆくなることが多い、とある。この霜焼けは、悪化すると、手の甲や指がどんどん膨れてボクサーのグローブのように腫れる。やがて極みを迎えると、一つは表皮が破れてただれる。他方はVの字にひび割れる。Vの割れ目から白身の肉や骨が見える。これが皸(あかぎれ)である。

 当時壱岐の子供から大人までのほとんどが、大小の違いはあれ、霜焼けか皸に罹っていたと言っても過言ではないだろう。これにはまず敗戦直後の食料事情の悪化があったろう。次ぎに、寒かろうが暑かろうが避けることの出来ない農作業があった。特に女たちはグローブのように腫れた両手で惜しみなく農作業、水仕事をこなした。彼女たちは一日の終わりにお湯を沸かし、盥の中にこのグローブのような手を浸けるのを最大の喜びとしていた。湯の中に両手を浸けると少しながら血が通うのだろう、気持ちがよい。しかしただれたり、Vの字に割れたりした肉に湯がしみ、激痛が走る。うーん、うーんと獣のようにうめきながらの湯治であった。翌朝、みんな何事もなかったように仕事についた。

 この霜焼け、皸に魔法のように効く薬が一つあった。わが家から徒歩で一時間半、隣村の湯ノ本にある温泉に浸けると、あな不思議、たちまち完治するのだ。私の薬指の傷痕もたった一度湯ノ本の湯に浸けて完治したものだ。このお湯は、霜焼け、皸に効く、呑むと胃腸によいとされ、島民には有名だった。私が行った時は二~三月の農閑期だったろう。離れには長逗留の湯治者専用の建物があり、煙突から煙が上がっていた。彼らは食料持参、自炊で泊まり込んでいた。当時の人にとって湯ノ本の湯は最後の救いの砦であったろう。今はグローブのように腫れて痛むわが両手であるが、湯ノ本の湯に浸けさえすれば、神様から貰った元通りの健全な両手に戻る、という信仰のようなものがあったように思われる。

 先に位牌を整理していて、四代前の曾祖母たちが壱岐一周をした書付をみつけた。壱岐には神主なしも含めて、一○○○のお宮があるとされる。いわば壱岐は神の島である。農閑期になると、彼らは湯ノ本の湯治もふくめて、徒歩で壱岐一周をし、神様に無事を報告・感謝する行脚をしていたようだ。

 うめきつつお湯に浸けゆく皸よ  靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

Be First to Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です