初浴衣夫をむかへに通りまで 高橋真樹子
こういう心持ちでいたら、あたりまえの日常がいつも新鮮に感じられそうな気がする。初浴衣の「初」が効いているのはいうまでもないが、下五を「通りまで」としたことで、心のはずみがより伝わってくる。あとは、何を言っても蛇足に思えてくる。
アロハシャツまづ若冲に描かせよ 臼杵政治
アロハシャツは19世紀末、日系のハワイ移民が木綿絣を開襟シャツに仕立て直したことから始まる。もし若冲がアロハシャツの柄を描いたらどうなっていたか。若冲は青物問屋の長男であったが、家業を継ぐことはなく、生涯を絵にささげた。細密な一筆一筆に魂を込めた「動植綵絵」は、相国寺に寄進されたものであり、若冲は北斎のように商業デザインをすることはもなかったから、たいへんなミスマッチである。しかし、だからこそ面白い。若冲は技術に貪欲な人であったから、アロハシャツのプリントにしろ、スカジャンの刺繍にしろ、生きていたら我々を驚嘆させるものを描いていたかもしれない。
昼寝後の別のひと日を生きてをり イーブン美奈子
新型コロナの重症者で、エクモを装着してから一週間も記憶がないという方もいるそうだが、この句は一時の昼寝である。しかし、目覚めたあと、まるで別の一日を生きている感じがするというのである。たしかに、一時の昼寝であっても、眠りには不思議とそういう断絶の力がある。ところで、寝る前に、もし目覚めたとき全く別の世界、別の自分であるかもしれないと思った経験は、誰にでもあるのではないだろうか。よくも悪くも眠りによる断絶が、一日を新しくしてくれるのだ。この句の清々しさは、断絶の清々しさであろう。
焼茄子や安けき日にも終りあり 前崎都
句の形は言い切りであるが、余韻に夏の夜の感じが広がってくる。取り合わせの「焼茄子」がいい。この句の内容は〈月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり〉にも通じるものがあるが、「焼茄子」のような暮らしのなかの具体的ものであればこそ、その移ろいゆく月日の始末がつけられた。
昼寝覚稚なき我を置き去りに 白石勉
夢の中で幼いころの自分になっていたのだろう。昼寝から覚め、我に帰ってみると、夢の中にその幼い自分を置き去りにしてきたように思える。そして、まだ夢の世界に自分がいるような感じがするのだろう。幼いとき、置き去りにされる夢をたくさん見た記憶があるが、その頃の自分がまだ夢の中で泣いているような気がしてくる。
亡き君と手踊り囃し沖縄忌 鈴木伊豆山
「亡き君」とは沖縄戦で命を落とした方だろうか。手踊りでその方をしのんでいる。エイサーは手踊りが基本と言われる。沖縄忌なればこその弔い方に違いない。沖縄民謡の音と波のリズムが感じられる。
今はもう歩くのみなるプールかな 潮伸子
この句は老いを嘆いているのではない。己をしっかり対象化して見つめなおしている自分がいる。この距離感、二重性がユーモアをもたらしている。下五の「プールかな」は、なんともいえない味わいがある。
山の水くめばあばるる茄子かな 斉藤遼風
茄子の生き生きとした様子が目に浮かぶ。音まで聞こえてくるようである。茄子が水の中で躍るという句はほかにもありそうだが、「山の水」と置いたことで、遠景と近景のコントラストが生まれた。
薬降る天に如来の薬壺 加藤百合子
「薬降る」とは、陰暦5月5日の正午に降る雨のこと。薬をその雨水で作ると効き目があるとされる。この句は天に薬師如来の薬壺(やっこ)があるというのだ。実景としては、雨が降っているだけてあろう。とにもかくにも言葉は薬にも毒にもなる。
更衣かくもかはらぬ性根あり 田村史生
「更衣」の句は変化が詠まれることが多いが、この句は変わらないものを詠んでいる。しかも変わりたくても変えられないものがあるというのである。「更衣」とくれば、たいていはそこは見過ごしたいものに違いない。作者はそこを逆手にとった。
目覚めたる人から去りて夏炉かな 市川きつね
会えばすぐ笑ひころげしソーダ水 西貝幸子
恋多き螢なるらん光濃く 藤英樹
蓮ひらく泥より出でて真白なる 伊藤昇
やはらかく時を醸して香水瓶 加藤裕子
人の世に近づきすぎて虹見えず 土谷良子
御来光巨人のふぐりあかあかと 神谷宣行
以上の句にも感銘を受けた。
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二年間、平野さんと二人で交互に「古志投句欄を読む」を続けてきましたが、今回が最終回になります。「読む」は「詠む」に通じるものがあり、たいへん多くを学ばせていただきました。引き続き、古志ブログをよろしくお願いいたします。
関根千方(せきねちかた)
1970年、東京生まれ。 2008年2月、古志入会。 2015年、第十回飴山俳句賞受賞。2017年、句集『白桃』[古志叢書第五十篇](ふらんす堂)。古志同人 。
Twitter: @sekinechikata
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