島に生きる季語と暮らす(48)〈最終回〉古日記

 両親は日記をつけていた。親の日記といえど、何か憚れる気持ちがあって、いずれも死後一部だけ、斜め読みをした。父の日記は主に農事に関することが記されていた。父は敗戦後引き揚げてきて、岳父に一から指導を受けて、百姓を始めた。教わった知識や技術、失敗も含めて、その成果を必死に記していたのだと思う。なにしろ百姓の仕事は一年単位。失敗したからとて再挑戦の機会は一年後にしか巡ってこない。失敗の原因、季節のころ合い、来季へのヒントなど、書き出したら切りがなかったろう。家族を養うための苦闘の姿がそこにあった。

 母は夫の死後三十年、六十にも満たない早世の父の跡を継ぎ、家を護った。母の望みは、先祖代々引き継いできたすべてを、一人息子の私に直接引き継いでもらうことだったが、それが結果的に叶わず、苦悶の晩年であったと思う。ただ母の性格は明るく、学ぶこと、教えることが好きで、活躍の場を自分で広げていった。本屋に在庫していない本は取り寄せて読んでいたし、活花、陶芸、書にも打ち込み、指導する立場にもいたようだ。

 母は三年連記の日記帳を使っていた。通称“ピンピンコロリ”で八四歳で身罷る前日まで、女性らしく、細かく事実を記していた。時々、連絡をしない息子として、私が登場した。私は三か月に一度は連絡を入れていたつもりであったが、日記には、あまり連絡をしない息子として、登場した。反省しきりである。

 私は高校入学と同時に日記をつけ始めた。両親が日記をつけているということは知らなかった。どこかに充実した高校生活を送りたいという、初心な気持ちがあったろうか。

 上京後は読書にこころがけた。読書会の帰り、親友から全集に収録されている書簡・日記を読むように勧められた。なるほど、その作者の書簡・日記を読むと、その作家の師匠、友人、ライバル、時代背景などが即座にわかり、親しみを持つことが出来た。そこで、私は気に入った作家は、全集を購入して読むこととした。書簡・日記は必ず眼を通した。

 学生時代、毎月、母から仕送りをしてもらった。金を受け取るごとに、お礼の手紙を書いた。それに原則毎日日記をつけるという習慣が、私に気軽に文章を書くという癖をつけてくれた。

 わが国において日記が盛んなのは、わが国が農耕文化だからだという説がある。また季節・天候を重視しているという意味から、日本人の日記は歳時記的、俳諧的でもあるとも指摘される。私の俳句への目覚めは此処にあったと思われる。

 空白の一日おそろし古日記  靖彦

*四年間のお付き合いに感謝します。お元気で、健吟をお祈りします。

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

2 Comments

  1. 長野いづみ said:

    園田さん、楽しく拝読させていただきました。4年間ありがとうございました✨ 戦後間もなくの島での暮らしが豊富に語られ、戦後生まれではありますが、岡山の田舎で育った私にも共感できる場面が多々有り、毎月楽しみでした。
    又別のかたちでの登場をお待ちしております。

    2020年11月30日
    Reply
  2. 長井はるみ said:

    園田様、

    毎号楽しみに読んでおりました。幼少の頃のことをよく覚えておられるなぁと感心していました。日記をつけておられたからでしょうね、きっと。

    対面句会が出来ない今の状況では、直接お礼をお伝えするすべがありません。ここで改めて、”belated” ではありますが、お伝えします。

    有難うございました。

    2020年12月1日
    Reply

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