島に生きる季語と暮らす(46)砧

 歳時記で「砧」を調べてみると「麻・藤・葛などで織った堅い布を柔らかくし艶を出すため、木や石の板にのせて槌などで打つこと」とある『俳句歳時記 第五版 秋』(角川書店 二〇一八年八月刊)。他の歳時記も大同小異、布について表記が終始している。そんな歳時記の中で、私の調べたところ、『新歳時記 虚子編』(三省堂 二〇一〇年三月刊)だけに、「藁砧といふのは藁を打つ砧をいふのである」と記述がある。私がこれから書こうとしているのは、この「藁砧」についてである。

 私の実家の庭の片隅に、今でもロダンの「考える人」の青年が座っているような一塊の石がある。その石について、当時名付けて呼んでいたはずだが、今は思い出せない。砧とだけは言わなかったと記憶する。この石は少なくとも祖父の代、それ以上の代からそこに座っているように思われる。

 夕方になると、父はその石の上に、何度も藁束を置き、左手で三百八十度回転させながら、右手の木槌で藁を打った。夜なべをするためだ。夜なべはまずは縄を綯ことから始まる。藁は基本的に注連縄のようにぴんと張っている。これでは綯えない。そこで事前に藁を砧の上で木槌で打ち、柔らかに撓うようにしておく。
 
 私が小学三~四年になるまで履いていた草履、収穫物を収納する俵や叺などを作るには、どれも縄を基本にし、藁で巻きつけたり、編んだりしたものだ。その当時、既に機械の縄編み機はあったが、肝心の製品を作るときは、大人の手綯いの縄を使った。子どもの私が綯った縄など採用されなかった。私は、小学校高学年になると、草履を作った。草履は一か月で踏み潰した。我が家は五人家族であったので、最低五足の草履が必要であった。

 我が家では藁を打つ以外にも砧を使った。「スルメ砧」とでも呼ぼうか。壱岐、対島周辺の海域は、烏賊の宝庫だ。夏の夕方、夜ともなると、烏賊獲り舟の漁火で海面が埋まる。壱岐、対馬周辺では、二種類の烏賊が獲れる。一つは現地でツシマメと呼ぶ三十センチ前後の大衆的な烏賊だ。もう一つは、ミズイカ(アオリイカの別名)と呼ばれる六十センチ前後の、それはほれぼれする烏賊で、贈答用や正月に使われる。

 私たちがもっぱら食するのはツシマメの方である。七輪や火鉢で炙ったスルメをあちちと砧まで運び、金づちで軽く叩く。するとスルメの肉がほぐされて、裂き易くなる。醤油やマヨネーズをかけると、沁みやすく、おかずになるのである。

  帰還せぬ吾子を信じ砧打つ   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

Be First to Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です