古志投句欄を読む 2020年9月号

 隙あらば浮巣を狙ふ敵ばかり    大場梅子

浮巣のあはれが詠まれている。とはいえ、蛇も鴉も飢えには勝てないし、まして子孫を残すためとなれば必死。自然の摂理そのものがあはれなのだ。一方で、人間も少しでも隙を見せれば一斉に攻撃される社会に生きている。しかし、それは到底自然の摂理に合ったものではない。そんな現代の世相への批判ともとれる一句。

 雲の峰巨人を倒す小さきもの    伊藤空

世界中に新型コロナウイルスが広がっているこの状況下にあって〈巨人と倒す小さきもの〉といえば、まさしく人類という「巨人」を脅かしている新型コロナウイルスを思わずにはいられない。雲の峰の見る見るうちに大きくなっていく姿、また逆に崩れてゆく姿が目に浮かぶ。

 顔よりも大き口空け燕の子     辻奈央子
 燕の子口くたびれて眠りけん    酒井きよみ

燕の子と言えば「口」だ。阿波野青畝の〈子燕の口いま親の口をつつむ〉然り、加藤秋邨の〈口見えて世のはじまりの燕の子〉然り。辻さんの句は親の口ではなく己の「顔よりも大き口」という表現に勢いを感じた。酒井さんの句は「口くたびれて」という捉え方に納得せられた。どちらもその口に子燕のあはれを感じさせるだけではなく、向日性がある。常套としてさけてしまうのでなく、果敢にその先を目指す姿勢を見習いたい。

 一句もて師に立ちむかふ更衣    齋藤遼風

一句にかける気概が伝わってくる。投句にもこういう緊張感を持ちたいものだ。作者は長谷川先生の〈ごつとある富士こそよけれ更衣〉に立ち向かったにちがない。取り合わせの「更衣」という季語の力にかけるものがある。

 筍よ竹槍となることなかれ     稲垣雄二

もちろん、筍がおのずから竹槍になったのではなく、人間が竹槍にしたのだ。そして、竹槍訓練を通して、国家のために死ねる人間を作った。あたかも、そうなることが自然であるかのように。竹槍などになるなと敢えて筍に語りかけることで、読み手に内省をうながしているようにも思える。

 からころとラムネの瓶を戻しけり  田中益美

ラムネの瓶は、いまやガラス製からペットボトルにとって代わられてしまったが、ビー玉が涼しげに鳴らすのは、やはりガラス瓶ではなければなるまい。そもそもガラス製のラムネ瓶はリユースされてきた。だから「戻しけり」なのだ。ところで日本では、資源ごみとしてペットボトルはリサイクルされているが、世界的にみるとプラスチックごみによる海洋汚染の原因の一つでもある。30年後には海洋の魚の量をプラスチックごみが上回るとさえ言われている。私の幼い時はまだコーラの瓶もガラス製でリユースされていた。いまでもビール瓶や一升瓶、牛乳瓶などまだリターナブル瓶が残っているが、流通量はわずか。ラムネはガラス瓶であってほしい。

 麦藁のストローなつかし貧しさも  横山幸子

プラスチック製のストローもペットボトル同様、海洋汚染ゴミの一つである。数年前、鼻にストローが刺さったウミガメの映像が世界中に流れ、見直される契機になった。最近やっとスターバックスでも紙製のストローになったが、まだまだ多くはプラスチック製のストローが使われ続けている。ストローはその言葉通り、そもそも麦藁(straw)であった。近頃新たに、無印良品などでも麦藁ストローが販売されるようになった。わざわざ生分解性プラスチックを使用するまでもない、なつかしくも、あたらしいストローである。貧しさよりも豊かさを感じる。

 向日葵や心臓手術の十時間     櫻井滋

向日葵に見られているような感じがしたのではないだろうか。見守られているのか、見届けられているのか、なんのかはよくわからない。実際は、病院の外に向日葵が立っていただけだろう。十時間の心臓手術といったら大手術である。全身麻酔だから十時間ものあいだ意識はないはずだが、その術中に潜り込んだ無意識の深さと、向日葵の強烈なイメージが対照的だ。

 大日向水の地球に住んでゐる    竹下米花

大日向水といって庭先と地球をつなげてとらえたのが、面白い。地球の表面積の70%を占める水であるが、地球の体積でみると0.1%にしかならない。大気中の水蒸気や人体のなかの水分もふくめても、そんなものなのだそうだ。そんなわずかな水の循環によって生態系は支えられている。たしかに、われわれはこの水とともに地球に住んでいる。

先月の古志8月号の特集は「ポストコロナ」であった。さまざまな問題提起がされていたが、ここでは一つ、個人的な体験を述べてみたい。

私の家では、3月中旬から夫婦そろってリモートワークとなった。仕事でもレジャーでも、都心に出ていくことがほとんどなくなり、生活圏は近所が中心になった。妻とは別々の部屋で仕事をしていて、それぞれオンラインで誰かと会話することは増えたが、直接人に会う機会は減った。妻と子どもと三人一緒にいても、それぞれが別々のディスプレイを眺めている時間が長くなったようにも感じる。

そんな生活になって5か月くらいたったころ、わが家では猫を飼い始めた。きっかけはふとしたことだ。犬猫の殺処分に対抗すべく、保護したり里親を探したりする団体があるが、そうした団体と提携運営する保護猫カフェにいったところ、縁があって一匹譲り受けることとなったのだった。

想像していた以上に、猫はよく話す。ニャーという鳴き声にもいろいろあることがわかった。朝まだ私が寝ている部屋の前に来て、小さな声でニャー。キッチンに立っていれば私の足に体を擦り付けてきてはニャー。洗面所で顔を洗っていれば横に座って蛇口から水が出るのを待ってはニャー。パソコンに向かって仕事をしている私を見あげててはニャー。長い時間外出して帰ってくればリビングのドアのガラス越しに見つめながらニャー。声の高いニャーもあれば、低いニャーある。かすれて声の出ない口だけ動くニャーもある。

どうやら猫は人間に対してしかニャーとは鳴かないものらしい。あきらかに猫は私に話しかけている。

そこで、ふと思ったのだった。もし私もニャーとしか声が出せなかったとしたら、いったいどんな世界を生きることになるのだろうと。

たとえば、突然まったく知らない言語を話す国に連れていかれたとしたら、状況は似てくるかもしれない。その場合は、その国の人が話す言葉をまねて話そうとするかもしれないが、猫はそうはいかない。もしや猫も人間の言葉をまねているのかもしれないが、猫と人間ではそもそも声帯のつくりが違うし、聞き取れる音も違うはずだ。

そうなったら言葉は閉じられた内側の世界に追いやられてしまい、私は孤独の極みに達するかもしれない。私と世界の関係は、明らかに変わってしまうだろう。そう思うと、目の前で鳴いている猫のニャーの一声一声が、孤独の極みから発せられる、言葉にならない声に聞こえてくるのであった。

そこで思うのは、俳句のことである。

俳句は言葉で作るが、言葉だけに還元できるものではない。俳句から言葉を引いたあとに何かが残る。芭蕉は〈言ひおほせて何かある〉といったが、俳句は言葉にすべて還元できるようなものではない。

俳句を読むとき、言葉で意味をつかむわけだが、同時に猫の鳴き声のようなものに耳を傾けなければならない。そうしなければ、猫の鳴き声の向こうにひろがる、言葉にならないものの世界に気づくこともできない。

俳句は自分で作るよりも、他人の俳句を読むことのほうがはるかに難しい。そう言われる理由は、ここにあるのだろうと思う。この一年「投句欄を読む」を続けてきて、まさに痛感する。しかし、俳句を作るときも、実は同じ難しさがあるのではないだろうか。俳句は言葉で作る。しかし言葉だけではできない。己の中にいる猫のような他者の鳴き声を聞き取らなければならないからだ。これが難しい。

ところで、わが家に猫がやってきて以来、あきらかに変化が起きている。言葉ではなかなか説明しづらいが、いい変化であることは言うまでもない。

関根千方(せきねちかた)
1970年、東京生まれ。 2008年2月、古志入会。 2015年、第十回飴山俳句賞受賞。2017年、句集『白桃』[古志叢書第五十篇](ふらんす堂)。古志同人 。
Twitter: @sekinechikata
Instragram: @chikata

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