島に生きる季語と暮らす(45)煙草干す

 敗戦から三年目、中国から引き揚げて来て二年目、私はまだ小学校に入学前であった。ある時、父と手をつないで歩いていると、父は突然私の手を振りほどきダッシュし始めた。何事かと見ていると、父と同じように、向こうから一人の男がダッシュして来るのが見えた。二人の男が行き着いた足元には、一センチ大の煙草の吸い残し、シケモクが転がっていた。戦争中、煙草好きであった男たちは煙草の確保で苦労したようだ。戦争が終わって、さあ、たらふく煙草を吸うぞと思っても現実はまだ十分な供給はととのっていなかった。男たちは窮して、見栄も外聞もなく、シケモクを拾い集め、英語辞書コンサイスの紙にほぐして貯め、唾液で糊付けし、見事一本の煙草とし、吸い直した。

 戦後、全国的に葉煙草栽培が盛んになった。壱岐でも、米作りに加え、広がった。だが、わが家は、葉煙草栽培に参加しなかった。一つは、引き揚げの五年間、定収入がなかったこと、二つめは父が戦後になって百姓を始めたこと、三つは、初めての葉煙草栽培はやや賭博的不安があった。まず先行投資として、自宅敷地内に乾燥場を建てる必要があった。葉煙草は、六月に収穫し、陰干しに、やがて八~九月に乾燥させる。このときに乾燥場が必要となる。乾燥は一定の温度で行うので、常に温度計を見ながらの炊き付け作業だった。乾燥が順調にいくと、秋の査定会で一等の煙草となるが、むらがあると二等以下に格下げされ、収入に直結した。

 さて乾燥の期間に入ると、二十四時間体制になる。どの家でも昼間は祖父母、父母の大人が担当し、夜間は青年、子供たちが受け持つ。私は葉煙草を乾燥している家の同級生と話をしていて、いつもうらやましく思うことがあった。彼らは将棋、碁、花札、トランプ、サイコロ遊びが出来た。青年たちは、夜の時間つぶしに、手慰みの遊びをやっていたのであろう。昼間、学校の休み時間に同級生たちが将棋をやっている場に居合わせたことがある。彼らは乾燥場で覚えたであろう臨場感あらわな、一丁前の言葉や符牒を発した。

 更に、同級生たちは村の情報通でもあった。「あの家の兄ちゃんとむこうの家の姉ちゃんはデキている。今度結婚するぞ」などと予言する。何か月後、確かに彼が予言したようになった。ほかに、大人にならなければわからない艶っぽい噺なども小出しに話してくれた。私には、彼らがどんなに大人に見えたことか。

   葉脈の浮き出し太き煙草干す   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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