島に生きる季語と暮らす(43)水着

 島の少年にとって泳ぎは必須科目である。五歳から小学校に入学する頃になると、父親に教わる。教わるという表現は厳密に言うと語弊がある。父親は舟で沖へわが子を連れ出し、有無を言わさず、海へ投げ込む。これを二三度繰り返すと、子供たちは自然に泳ぐことが出来るようになる。私も舟こそ乗らなかったが、父に沖へ抱いて行かれ、海に放り出された。

 壱岐の島のほとんどの父親たちは、獅子の父親がわが子を千尋の谷に突き落すように、荒用法を行った。少年たちもやがて大人になって、代々のやり方がベストと思うようになり、繰り返してきたのだと思う。少なくともわが親の代までは、父親の大半はそうだった。

 ところで、私たち少年は小学二年ころまで、泳ぐ時は、即ちすっぽんぽんであった。一つは、すっぽんぽんの方が子供はかわいいというおおらかな性があったと思う。二つ目は、敗戦直後で国家的、家庭的にも貧しく、娯楽の水着の域まで及ばなかったというのが、本音だったろう。

 成人男子の水着は真っ白の褌だった。中には、前褌(みつ)に五メートルくらいの布を手繰っている褌もあった。これは鮫対策の褌である。海中に鮫の姿を見つけると、この前褌を垂らす。鮫は自分の口を開けた時に、それよりも直径が長いものは食わないという言い伝えがあった。事実、私は子供時代、島で鮫の事故を見聞したことがない。

 一九五一(昭和二六)年、私の小学三年生くらいから、子供たちは、夏になると、一日中、俗称白い猿股一丁の生活に入った。毎日、周囲の海で泳いだが、近くにある池、沼、堤でも泳いだ。壱岐には長崎県第二の広さをもつ田原があるが、島には高い山がなく大きな川もない。幸いというか、台風銀座とよばれる島に、たびたび台風が襲来する。この集中豪雨を稲作のために堰き止めたのが、池、沼、堤である。

 夏休みが終わってみると、毎年、子供の水難死が出た。一九五六(昭和三三)年、私が高校に入るころ、島の小・中学校にプールが出来始めた。それに呼応するように、かつて私たちが泳いでいだ海辺や池、沼、堤は遊泳禁止になった。私にとって海は、魚とともに泳ぐところ、栄螺、鮑、海胆、海草を採るところである。私はそれ以来、泳ぐことに急激に興味を失った。関東に来て五十年来、今年一度も泳げばよい方である。私は紺色のノーマルな水着を二十年以上愛用している。少年時代、毎夏、真黒だった背中は今はさめたままだ。

 新記録たてしかの日のわが水着     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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