島に生きる季語と暮らす(36)榾

 夏下冬上(かかとうじょう)、という言葉をご存じだろうか。火種を、夏は炭の下に入れ、冬は炭の上に置いて、炭火を熾すという意味だ。私は小学一年になったときに、母から火を扱う全般について細部まで、徹底的にたたき込まれた。その一環として夏下冬上を教わった。一年生ともなると、三十メートル先の井戸から水を汲んで来たり、湯を沸かしたり、簡単な煮焚きを手伝うようになる。当時の家は、紙と樹木から出来ていたから、火の不始末から火事でも起こしたら大変だった。 

 先に述べた通り、先祖のおかげで、我が家は近隣では寺山(寺が保有する山)に次ぐ山の持ち主であった。そのことが中国・大連から引き揚げて五年間定収入のないわが家にとって、どれほど助かったかしれない。今でこそ壱岐全戸は燃料としてプロパン・ガスを使っているが、当時は江戸時代、それ以前と同様、全戸の燃料は樹木の薪に頼るほかなかった。

 夕方、子供たちは竹で編んだ大きな籠を背負って山に入る。私たちは「榾取り」に行くと言っていた。徒歩十メートルで山である。まず焚きつけ用に松葉の落葉を集める。更に進み、台風や大風で吹き落され枯木になった小枝を集める。最後に老いて倒木となり、榾になった塊を見つけ、山籠に入れる。歳時記には榾は「囲炉裏にくべたり焚き火などにしたりする木の切れ端」とあり、生木も含まれているようだが、私たちはもっぱら“枯木”を指していた。自宅に持ち帰りまず干した。枯木の芯が湿っていたり、中に蟻や蚯蚓、虫が棲んでいたりするからだ。完全に乾燥しきったところで燃料にした。

 榾は通常愛用していたが、いわば二級の燃料であった。餅搗の、蒸籠の中の米を蒸すとき、お祝いに大量の豆腐を作るときなど、火力が必要な煮炊きのときは、割木を使った。西部劇の映画によく登場するように、父は雑木を三十センチ長に輪切りし、立てて据え置き、上から斧を降り下ろし真二つにした。この割木からは炭が出来た。炭を消し炭壺に入れて保管し、やがて熾して火鉢の火とし再利用した。竈は三つあった。焚き手はたいがい子供たちだった。時には、赤くなった灰の中に、甘藷、栗の実などを入れた。ほくほくの藷を家族で食べた。栗は弾けて四散し食べれなかったり、なかなか弾けないので口に入れると口内で弾けて皮がむくれたり、するめを炙ったり……、ものを煮焚することは、原初的に楽しいことだった。いまでもあの煮炊きのときの歓声が聞こえる。

   はじけては紅となる榾火かな   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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