島に生きる季語と暮らす(35)外套

 残された母のメモによると、その日は敗戦から二年目、一九四七年十一月十六日の夜のことであった。私は五歳、夕食が終わり既に眠りについていた。その眠れる幼子の柔らかき両頬に、毬栗の毬をごりごり擦りつけた者がいる。痛い、誰だ、こんな悪戯をするのは! 私は飛び起きた。その時最初に瞼に飛び込んできた光は普通と違って、何んだか明るかった。耳に届いた言葉は弾んでおり、大人たちの笑い声がした。

 事情がわかってみると、敗戦によってソ連の捕虜となっていた父が、私たち母子の帰還よりも九カ月遅れで帰郷したのだった。父は久しぶりに会う自分の息子を抱き寄せ、頬擦りをしたのであったが、何日も髭を剃っていない父の頬は毬栗の毬のように髭が伸びていたのだった。

 先に書いた通り、わが家は江戸末期まで壱岐を治めていた平戸藩の馬廻り役(警察庁長官)を世襲でつとめていたが、ご一新となり長崎に呼び出された。曾祖父は東京で殉死、祖父は三大軍港のうちの一つ長崎海上署長をつとめた。父も警察の道へ進んだが、時代は日本が大陸へ雄飛しようと画策していた頃、大陸への玄関口、中国・大連に赴任させられた。

 敗戦も大連で迎えた。進駐軍のソ連が真っ先に下したことは、日本の警察力の破壊であった。わかりやすく言えば、高官は銃殺、絞首刑にし、父たち若い警察官は捕虜とし、労働力として自国へ送り込んだ。父たちは窓のない貨車に詰め込まれ、何日か走った。貨車が止まり下車を命じられたとき、父たちはその場所を即座に明言できた。ソ連兵たちは驚いていたそうだ。なぜ分かったか。暗い貨車の中で父たちはゴトンと音たてるレールの音を数えていた。そのレール音の総数と一本のレールの長さを掛け合わせると距離が出る。彼らは加減乗除、数字に弱かったらしい。

 父たちは樵を命じられたが、ほとんどサボタージュをしたという。後年シベリヤへ送られた日本人が極寒と食料不足のなかで重労働を課せられ、大量死をした事実を知るが、父たちが送られて場所は今となっては不明だが、ソ連側は捕虜を大事にあつかったようだ。父は帰国したときは、ソ連側から支給された真新しい外套を着用していた。その後外出のときは、いつも自分の捕虜時代をなつかしむように愛用していた。

 父の戦後は大変だった。帰国後五年間は、定収入がなく、それまで、地主のぼんぼんとして育ってきた父が、岳父から農業の手ほどきを受け、家業として立派に定着させたのだ。

俘虜なりし父の外套羽織りみる    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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