島に生きる季語と暮らす(21)甘藷

 一九五○(昭和二五)年代後半のわが家の日常のご飯は、米三、麦七の比率であった。この比率は冠婚葬祭の度合いによって変わったが、百%ギンシャリの日は滅多になかった。米は、来年の種籾用に確保した上で、残りの大半は農協へ供出、現金に換えた。主食の米を補ったのが、甘藷(さつまいも)であった。甘藷は土地が痩せたところでも獲れた。敗戦直後の壱岐の人々を救ったのは甘藷と言っても過言ではない。生の藷をスライスし保存食にしたかんころ藷、茹ででスライスにし干した飴替りのもの、蒸かし藷、焼き藷、餅に搗きこんだかんころ餅など、今でもすぐに十指に挙げることが出来る。収穫が終わると、母屋の床の下に掘った大きな穴へ、一年分の保存食として備蓄した。この穴が一杯になると、子どもながら安堵したものだ。

 さて、藷の収穫が終わると、子どもの私にとって一仕事が残っていた。近所に「ひっとり爺さん」「ひっとり婆さん」と呼ばれている老人が住んでいた。子どもが巣立ち、連れ合いに先立たれて、今は一人暮らしの老人だ。子供たちはやや揶揄の気持ちを込めてそう呼んでいた。藷が穫れると、子どもの私はこの「ひっとり爺さん」「ひっとり婆さん」の家に藷を届けるように言いつかっていた。そして、その爺さん、婆さんの屋敷に近づいたときには「ゴヨウシャ!」とおらべ(叫べ)とも指図されていた。私は「ゴヨウシャ!」とありたけの声で叫んだ。当時の壱岐の家には鍵をかける風習がなかったので、がらりと玄関のドアを開けると、持参の藷の包みを放り出し、見てはいけないものからのがれるように、一目散に退散した。爺さん、婆さんは奥の部屋で寝ているのか、あまり人の気配はなかった。藷のほか、野菜、果物、魚などたくさん入手したときも、よくこの使いに出された。

 幼いときは、訳もわからず使っていた言葉が、ある日、氷解することがある。社会人になりたてのころ、あの「ゴヨウシャ!」は「御用者!」ではないかと思い当たった。九州には時代がかった雅な都ことばが今なお随所に残っている。「御用者!」の意味は、我は用があってこの屋敷に近づく者である。決して泥棒なんかではないぞよ、と解釈すると理が通る。そして藷の使いも、当時、老人へ対する年金、社会保障も皆無であったろうから、わが親たちが、先代である「ひっとり爺さん」「ひっとり婆さん」へリスペクトの気持ちから、なにくれとなく目配りをしていたと思われる。今思うと、私もささやかながら、地域の安寧の一助を果たしていたことになる。

  一蔓にかくもごろごろ甘藷   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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