島に生きる季語と暮らす(17)夏相撲

 わが家は、私が小学三年生の一九五一(昭和二六)年まで、ランプ生活であった。一方、同じ村ながら母の実家は戦前から電灯が敷設されていた。この格差は、母の実家の近くに特大の黒崎砲台が竣工されていたことによる。壱岐に電灯会社が発足したのは、一九一四(大正三)年、のちに電力界の鬼と畏れられた壱岐出身の松永安左衛門らによってであった。それから十四年後、壱岐対馬海峡を防衛する目的で帝国陸軍は東洋一の黒崎砲台建設に着工、五年間をかけて竣工した。当然のようにこの敷設には、多くの工兵、守備兵が駐屯した。こんな中お国のために働いている兵隊さんに、定期的に村の家に分宿してもらいご馳走しようという案が持ち上がった。実施してみると好評だった。母の実家でも何度か兵隊を迎えた。そんなこんなで砲台の周辺の家々には優先的に電灯が敷設されたのだった。

 私は母の実家に泊まりに行くのが大好きであった。夜になると真昼のように明るい電灯。そして叔父の手作りのラジオ。私はラジオが特にお気に入りで、その日は夜遅くまで耳を傾け、翌朝は誰よりも早く起きてラジオの前に座った。

 私が四年生のとき、やっとわが家に電灯が点き、念願のラジオの恩恵を受けることが出来た。更に六年生のときに小学校へテレビがやってきた。私にとって続けざまの情報革命だった。時代は視聴覚教育が標榜されていた。昼間は授業でラジオ、テレビが活用されていたが、夕方は村民に開放された。

 私たちは相撲放映にたちまち虜になった。なにしろ新聞、雑誌で見る相撲は、今まで静止画であったが、テレビはリアルタイムの動画である。力士の細かいデータの紹介のほか、パラパラ漫画のような取り口分解画像があり、親方の作戦・技の解説がある。私たちは一点も漏らしてはならじと耳目をそばだてた。時は次に来る相撲ブーム、栃若時代の前夜であった。中学に上がり休み時間になると、男子は裸足で運動場に飛び出し、棒で土俵を模した円を描き、相撲を取った。それぞれがテレビで見聞した技を試した。私の得意技は外無双(そとむそう)であった。右四つに組み、右手で相手の右膝頭を固定し、相手の右腕を左へ巻き落とすと相手は簡単に横転する。

 突如起きた相撲熱に学校側は土俵を作ることで応じ、全校生徒で畚(もっこ)を担いだ。土俵開きの日、私は選ばれて出場し外無双で相手を倒し賞金を貰った。孤島に住むわれわれにとってラジオは、本土、世界へ通じるイメージの情報であり、テレビはリアルタイムで追体験できる生きた情報であった。

  おほいちよやうざんばらくづれ四つ相撲   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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