島に生きる季語と暮らす(13)正月

 戦争が終わって郷里へ帰ってみると、家、職、食料、定収入がなく、塗炭の苦しみを味わったという家族は、当時日本国中あふれていたと思う。我が家族もその例外ではなかった。

 一九四七(昭和二二)年、中国・大連から引揚げてみると、GHQ(連合国最高司令官総司令部)指導の農地改革が施行されていた。わが家が所有していた全農地は、今まで耕作を依頼していた、いわゆる小作の人に没収されていた。返却を懇願しても無駄であった。引揚げて五年目頃、私が小学校三年生の頃、ようやく返却されたが、それまで我が家は無収入であった。同じ頃、母が独身時代つとめていた教師に復職でき、どうにかわが家も生活の目処がついた。

 小学生も高学年ともなると私は、元朝の早く海水を汲みに行った。そしてその海水に杉の葉を浸けて祓いながら「清め給え」と唱えながら屋敷を一回りした。この「清め給え」は、なにかというと年中何度も行った。もっぱら私の役であった。

 さてわが家の太箸には特徴があった。わが家は栗の木製であった。「繰り合いがよい」「くりあいがよか」の縁起のよい語呂合わせである。暮れに男たちは山に行って栗の木を探し箸を作るのだが、栗の木は元来曲がりくねっている。その曲がりくねった箸で雑煮を食べると縁起がよいとされていた。

 また元旦に行ったことは年中起こるとされ、夫婦兄弟姉妹喧嘩は御法度であった。殊勝にも日頃めったにしない習字、そろばん、勉強をした。飼っている牛や鶏には野菜や汁の特別のご馳走を出した。無収入の家だったのでお年玉は記憶にない、あってもノート、鉛筆を買うくらいの少額であったろう。午後から凧揚げ、独楽廻しに興じた。

 二日は母の実家にわれらも入れて三家族、三日はわが家から嫁いだ叔母達二家族がわが家に集まった。それぞれ叔父叔母、従兄弟たち二十人前後が集った。母の実家に行くときは、暮れに搗いた直径三十センチ以上はあろうという鏡餅を持参した。壱岐の男たるもの、年始に鏡餅を妻に背負わせ実家の玄関の敷居を跨がすことが出来ないと、沽券(こけん)にかかわるとされていた。母の実家の近くまでは父が重い鏡餅を持ち、門の近くになると、母の背中に鏡餅を括りつけ、実直に母に敷居を跨がせていたのは、子供ながらに滑稽だった。

 祝膳には大皿、中皿、小皿が載っていた。大人膳には盃がつき、料理の種類も多かった。ある年余ったのか私も大人膳をもらった。膳の左上の皿の料理に箸をつけ怒られた。その料理は持ち帰り、神様、仏様に供えるものだったのである。

  つくづくとわが来し方や在所餅  靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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