島に生きる季語と暮らす(10)新米

 私が高校に入学したのは、正田美智子さんが皇太子妃に決定した一九五八(昭和三三)年、いわゆるミッチーブームが沸き起こった年であった。その年の四月、社会科担当の松永安道、通称アンドウ先生は出席をとられた。先生は戦前の旧制中学から教鞭をとられ、島内では博覧強記として知られ島民から尊敬を受けておられた。

 生徒の名前を読み上げ、声の主を確認すると、「君にはお兄さんがいるだろう」「あなたは××中学の出身だろう」などと他愛のない言葉を掛けておられた。やがて私の番が来た。大きな声で返事をすると、ギロと一瞬私の顔をみつめた先生は突如「君は園田という名字の由来を知っているかい。尻尾の“尾”と、籠(かご)と書き“籠(ろう)”——尾籠(びろう)と関係があるのだ」とおっしゃった。勿論私にそんな知識のあろうはずもなく、すっかり狼狽えて「知りません」と答えるのが精一杯であった。

 先生は要旨次のようにおっしゃった。昔、天皇や貴人が地方を行幸されたときに地元で食事を差し上げた。その米を作る田圃を園田と言った。またその田を耕すには牛馬を使ったが彼らは所かまわず排出物を出す。畏れ多くも天皇や貴人に彼らの排出物で育てた米を食べていただくことは出来ない。そこで彼らの尾のところに籠を備え付け、排出物が垂れるのを防いだ。これが尾籠であり、園田の由来とつながる。

 高校を卒業以来半世紀、国立国会図書館、大学図書館、市図書館……、私は幾度もアンドウ説を調べたが、残念ながらどこにもこの記述は見出せなかった。先生は既に鬼籍に入っておられ確かめようもない。私はあれは先生のフェイクではなかったかと何度か疑い、また打ち消した。そして最近はたとえフェイクであったとしても、この説は学術的にもおもしろいので、密かに信じることにしようと思うに至っていた。

 先祖のおかげで郷里には田畑山林が比較的多くある。不在地主として私は何人かの方に、いっさいの報酬を要求しないで耕してもらっている。その中で元校長先生のみが、毎年わが田から穫れた新米十キロを送ってくださっている。

 昨年、新米の中に封書があった。わが田が「献穀田」に指定され、御田植祭、抜穂祭など古式豊かな催しがあり、収穫した新米は明治神宮、靖国神社、伊勢神宮、長崎諏訪神社、長崎護国神社、そして壱岐の主要四十神社に奉納されたとのこと。こんな栄誉は二百年に一度あるかないかの、ありがたいことである、と書かれていた。私はアンドウ説を疑ったことを恥じた。そしてわが献穀田で穫れた新米を早速先祖の霊前に供え、その旨を報告をしたのであった。

    めぐりきて献穀の栄今年米        靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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