古志投句欄を読む 2019年11月号

 稲妻となりて故山へ戻り来る  園田靖彦

主語は御霊のようなものではないだろうか。人は死んだら御霊となりいずれ故山で祖霊と融合し子孫を見守る。柳田國男によれは、固有信仰とはこういうものだそうだ。金子兜太の最晩年の句に〈山を捨て街空をゆくかみなり〉という句がある。偶然にも、雷が稲妻となって故山に戻ってきたことになる。ちなみに一茶も兜太も生前に故山に戻った。

 滴りのなかで光を待つ子かな  辻奈央子

出産前のお母さんの句。子どもが誕生を待っているように、お母さんも待っている。そのまなざしが、夏の山河のように大きく感じられる。「滴りのなかで」という思い切った表現によって、夏の山河に抱かれている感じが生まれた。母子を包むように、夏の山河もまた新しい命を待っているのだ。また出産と切り離すと、寓話的な雰囲気、たとえば『宇津保物語』のような世界を背後に感じさせる句でもある。

 蝙蝠の夜のわくわくしてきたる  渡辺遊太

蝙蝠の夜を「や」で切らずに「の」でつないでいるのが面白い。主客が合致して、我も蝙蝠もその夜さえも一体として「わくわくしている」という感覚。蝙蝠の飛び方が、わくわくする心の動きと連動してくるような感じがする。

 山椒魚わが身の重さしみじみと  上田雅子

山椒魚は両生類。大きな体を短い手脚で支えている。生命が水中から陸へ上がる過程をいまだに生きている。地上のものが水の中に入ると軽くなるように、水の中のものが地上に上がると重くなる。地上にあがったとき、はじめて、われわれは自身の重さに気づいたのかもしれない。もちろん、この句は己の生の重みを投影しているわけだが、それだけでは終わらない。生命の記憶が残っているかのようである。

 出水引く鰻一匹わが庭に  三角逸郎

こんなことはまずおこらないだろうと思いきや、いや、あってもおかしくはないと思いなおした。身近でも浸水被害を受けた方がいて、片付けの手伝いにも行ったのだが、被害の大きいところは、鰻が一匹いようがいまいが、それどころではない。しかし、この句を読むと、ほっと気のゆるむ感じがしてくるから不思議だ。たかが一匹、されど一匹の鰻である。言葉を超えたものをまとっている。

 死の地球つくる愚かや原爆忌  片山ひろし

生の地球、すなわち生態系は、地球の「薄皮」のように破れやすい存在である。一枚剥いてしまえば、そこは死の地球。「こはす」と言わずに「つくる」といったところが、正鵠を射ている。人間は世界をつくる。制作の主体は人間である。同時に破壊の主体もまた人間である。自然には制作も破壊もなく、生成変化があるだけである。「つくる」と「こはす」は同じことの表裏なのだろう。

 うなづきて又考えて蟻すすむ  吉田順子

誰でもこういうものではないだろうか。自分で自分に納得し、またそれを疑う自分があらわれては、考え直す。まるで、この蟻もデカルトの方法的懐疑を生きているかのようである。蟻を観察すると、魚の群れとは異なり、意外と単独行動がみられる。集団の役割を果たしつつも、個が存在しているようだ。

 樺太よ泰東丸よ母の夏  小平玲子

呼びかけるしかできない。そういう句である。泰東丸は、終戦直後の八月二十二日、南樺太の港から避難民を乗せて出航するも、ソ連の潜水艦から砲撃をうけて海に沈んだ。六百人以上の民間人が犠牲になった。いわゆる「三船殉難事件」の一隻である。作者の母上は泰東丸に乗っておられたのかもしれない。この句の呼びかけに対する返答は、作者に聞こえているのだろうか。

 死に神がひよいとかほ出す心太  森永尚子

生者は己の死を経験できない。生者が経験するのは、他者の死である。しかし、もし自分で自分の死を経験するとしたら、死はどんなふうに己の前に現れるだろうか。この句を読むと、おそらく滑稽な対面なのではないかと思えてくる。どんなに悲劇的な最後であろうと、幸せな最後であろうと、己の死との対面は、滑稽なものなのだ。下五に取り合わせた「心太」が絶妙。

 峰雲のてつぺん何が見ゆるらん  松川まさみ

もくもくと湧き上がる積乱雲。高さは一万メートルにもなるらしい。地上のどんな山よりも高い。この句は、実際の雲の高さではなく、一生かけても登りきれない、はるかな場所があるという感じがする。きっと人には一生かけても分からないことがあり、だからこそ想像するのだろう。

十一月号に掲載されている句は、九月十日が投句締め切り、すなわち八月に詠まれた句が大半である。一句欄に〈八月は死の月われの生れ月〉という真板道夫さんの句があったとおり、八月は「死の月」である。投句欄にも死をめぐる句がたくさん並んでいた。とりわけ、先の戦争を題材にした句が目立った。

我々のように戦争を知らない世代が、それをどう詠み継いでいくかということは、今後の大きな課題である。もちろん、意識的に「原爆忌」や「敗戦日」という言葉を使って俳句を読めばよいということではない。吉田順子さんの句の蟻のように、一人一人が考えて続けて、進み続けていくほかない課題である。

関根千方(せきねちかた)
1970年、東京生まれ。 2008年2月、古志入会。 2015年、第十回飴山俳句賞受賞。2017年、句集『白桃』[古志叢書第五十篇](ふらんす堂)。古志同人 。 Twitter: @sekinechikata

2 Comments

  1. 長谷川冬虹 said:

    とても鋭い句評ありがとうございます。毎号期待しております。

    2019年11月20日
    Reply
  2. 上田雅子 said:

    楽しみにしておりました「投句欄を読む」さっそく拝読いたしました。
    句の背景を丁寧にひも解いて下さる句評はとても勉強になります。驚いた事に私の一句にも深い考察を頂きありがとうございました。
    これからのご執筆、ますます楽しみにしております。

    2019年11月27日
    Reply

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