古志投句欄を読む 2021年1月

 囃されて君蓑虫になりにけり 上俊一
 
 自らの意思によって蓑虫になるのではなく、まわりから囃されてそろそろ蓑虫になろうかなと思う。成熟にとって自己意識の変革が必要だとするならば、まわりの声は大きな意味を持つ。それは先に大人になった者からの同じ立場へ誘う声であり、もしも耳を塞いでしまったならばその振る舞いは幼い行為とみなされる。胸の奥底ふかくへ自らの意思を沈め、他者の言葉を己の意思にすり替える。これが成熟の一過程ではないだろうか。しかし、すり替えることに違和を感じてしまうとき、人は蓑虫になるよりほかないのかもしれない。他人の声で自らをまとい、己の意思は蓑の内側で温めておく。意思は誰にも見せない。外部への拒絶である。蓑虫になってしまった君へ、掲句は嘆きの言葉にも聞こえる。とはいえ、このように蓑虫を象徴的に読むのではなく、もっと現実に即したかたちで蓑虫を解釈したとき、掲句は違った側面を見せる。囃す声は一体どこから来るのだろうか、自然の摂理とでも言おうか、しかしそんな言葉で言いおおせてしまってはつまらない大きな力が掲句の背後に流れている。大きな力への感動が掲句にある。
 
 猪や人が嫌ひと言はれても 岩崎ひとみ
 
 大谷主宰に〈人間が嫌ひで熊とふて寝かな〉の句がある。俗世から距離を置き、熊とふて寝するという磊落な作中主体が立ち現れる主宰の句に対し、掲句は世俗の垢にまみれてきた者が感じるそうした人物への戸惑いが表現される。俗世の垢を厭う磊落な人物は、金太郎のような物語の主人公になりこそはすれ、俗世において鼻つまみ者になりやすい。自分は人間が嫌いだからと宣言して関わりを絶とうとする。しかしそうではなく、意思にそぐわず嫌なことが多くあるとしても、我慢して人の間で生きていく。そうして生きてきた者だからこそ、人間が嫌いであるという宣言は甘えにしか思えない。猪は山奥から里に下りてくる生き物の代表格だろう。主宰の句の主体はそれでも山に戻っていく猪のようであり、大きな自然と一体化していく志向がある。一方で掲句は、猪に対比される形で人間が存在し、あくまでも人として俗世で強く生きていく者の句であると思う。
 
 蠛蠓の生きた柱にとりまかれ 西明野
 
 一読して三橋敏雄〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉を思い出した。三橋敏雄の句は戦争を背景に、現実ベースでは建築物の柱が燃えたものとして読めるが、神を一柱、二柱と数えていくよう神的なものとも通じ、または戦争という背景を踏まえたとき、柱が肉体化していって、逃げまどう人々が燃えているようにも読める。それはいつせいにという上五の効果によるものだろう。三橋敏雄の柱を燃え死ぬ柱とするならば、掲句は反対に生きた柱であり、同じくその表現からは人間が想起される。人々の間を浮遊する蠛蠓は灰のようではないか。一瞬で分けられた生と死、それから続く長い戦後、人間は増えて、燃え跡はコンクリートで覆われた。三橋敏雄の句と重ねることで時代の流れが見えてくる。
 
  錆鮎や炙りし腸の浅みどり 梅田恵美子
 
 うすみどりではなく、浅みどりとなっているところが面白い。浅い、深いとすることで奥行きが生まれる。色に奥行きがあるという目線は腸を立体的に見せ、炙られている腸の重みまでも感じられる。浅みどりを調べたところ菅原孝標女の〈浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月〉の歌が出てきた。どうやら新芽や空の色の形容として使うらしい。今にも食われようとする錆鮎のかつてのいきいきとした生の色を掲句は捉える。みどり色の内臓は苦そうでグロテスクであるが、食べること自体、総じてグロテスクな何かしらを含む。浅みどりとは食の本質を射貫いた色のようにも思える。
 
 虫売は虫に餌やり夜食かな 米山瑠衣
 
 虫における餌と、虫売における夜食がおなじものとして描かれる。虫売には不遇のイメージがある。今日も一日なかなか売り捌くことが出来ず、とぼとぼと家に帰る虫売。肉体的にも精神的にも朝に比べ疲労したその身体に、荷物は重たく感じられる。商売道具が死んでしまわぬよう餌をやりながら、自らも死なないように夜食を食べる。捕らえられ、籠の中をあてもなく動きまわる虫を眺めているうちに、ある種の同情が生まれる。自らもまた籠の中に捕われているような、目的もなく生き続けているだけのような暗い錯覚をする。あるいは全くの逆かもしれない。生きながらえようと餌にしがみつく虫の姿に、ああ、生きようとしているんだ、なのに自分は……虫売は夜食を貪り食う。そうして明日も虫を売るため家を飛び出す。どちらにしても生の如何が問題になりそうだ。それは虫売が虫の生命を売って自らの命を永らえる職業だからだろう。
 
 爪楊枝一本で剥く桃の皮 栗田幸一
 
 確かな質感が掲句の魅力である。食べごろになった桃は爪などで簡単に剥くことができる。その微細な感覚が爪楊枝というアイテムがもち出されたことによって、より詳しいものとなった。爪楊枝の先っぽは細く、尖っている。爪楊枝で桃の皮に線を引く。うぶ毛が覆っている表面と異なり、その果肉はみずみずしく、果汁は爪楊枝に染みこむ。ゆっくりと果肉を傷つけないように剥いていくと、爪楊枝の先っぽは柔らかく潰れていき、染みだした果汁に手のひらはいつの間にか汚れている。きれいに、そして美味しそうに、どこも損なうことなく剥かれた桃は、手のひらで光りを集め、ベタつく甘いかおりを鼻先に絡ませる。
 
 秋草に止まり沈みて蝶眩し 秋岡朝子
 
 言葉で組み立てられた景として楽しんだ。草が沈んでいくことでことさら輝く蝶を確かな実感あるものにするために、草は秋草でなくてはならない。春草や夏草ではそもそも眩しい。一方でもの寂しさのある秋の草ならば、蝶の重みで沈んでいく秋草のたわやかなところや、ただ止まっただけよりも沈んだ方が眩しく見える様が目に浮かびやすい。止まり、沈みて、と蝶の動きをコマ割りのように捉えたのも眩しさを立ち上げる効果がある。簡単な語で組み立てながら、それぞれの語のイメージが上手く使われていると感じた。
 
 2021年が始まりました。今年もよろしくお願い致します。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。短詩ブログ「帚」 http://houkipoetry.com/

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