古志投句欄を読む 2020年10月

 1

 ただならぬ世にさす光蜂の尻 篠原隆子

身の辺が暗いときにしか、射しこむ光は目視できない。ただならぬ世と現在を簡潔にまとめながらも「世」の一語によって現状だけではない、もっと広々とした生滅の場を想像させる。光というと概念的な浮ついた印象になりやすいが、掲句は蜂の尻を置くことによって光が実体を持っている。光沢のある毒針や蜂の体が鋭く光を反射する。その一瞬の力強さが掲句にはある。

 六月も終りに近き日向かな 梶原夕未子
 
 本州では梅雨の時期と重なる六月、どんよりとした空模様の日が続き、気分もくさくさしてくる。そんな六月の終わりごろ太陽が現れて光を落とす。日向がある。そんな単純な光景が希望に見えてくる。六月も、と「も」の助詞によって、ただ時期を説明するだけではなく、精神的なうす暗さをも表出している。ただ、ある。それが認められるのだとしたら、肯定としてこれ以上のものはないように思う。

 曝す書に夫の未完の日記あり 内田朋子

 日記はいつでも未完であって、日々書き足され、マメな人なら死ぬまで続く。当然ながら夫、その人が三日坊主で、面倒くさくなって辞めたとも考えられるが、にしては言葉が大仰である。亡くなった夫の日記を晴天のもとに曝す。ある日から白紙のその白さは、不可解なものとして眼に映る。書きこまれるはずだった多くの言葉と等しく流れるはずの時間が消えている。しかし、作者は後ろ向きでない。未来の生活のために、曝書という行為をしている。かわりばえの少ない毎日がただ、ある。その日々の重要性を詠み手は知っている。

 2

ここまで書いてきて思ったのは、生きることはすべからく肯定されるべきではないか、という話だ。そして現在は「生きる」の彼岸に置かれているのではないか。生きるために自宅にこもる。人との接触をなるべくさけて、他人と距離を保つ。コロナに感染せず、また自らが他人に感染させないためにも重要なことだ。このルールを守ることによって僕たちは生き続けられる。しかし、本当にそれで「生きる」と言えるのだろうか。生物として当たり前というべき接触を抜きにして?

 酸欠の金魚のごとくなつてをり イーブン美奈子

人は金魚を捕らえ、水槽の中で餌を与え、鑑賞して美しいと思う。人の手によって水槽に囲われた金魚は「人工的な金魚」として生きるのではないだろうか。現在、人間をコロナが捕らえ、家の中で過ごさせている。これから先は個人監視のシステムが洗練されることで、国家という檻が人を囲うかもしれない。息苦しい、ディストピアが迫っている。酸欠の金魚はいずれ死に至る。

 猫が嗅ぐ大崩れして蟻の列 藤英樹
 
 猫というのは好奇心旺盛で、あっちに行ったり、こっちに行ったり、奔放に動き回ると聞く。コロナみたいだなって。この時期に発表されるからには、コロナ禍に結びつけられた読みがされるのも、一つの読みとして真っ当なもののように思う。掲句の蟻を人類の見立てとして考えると、寓話的な光景になる。蟻の歩みが猫の興味を引きつける。好奇心によって鼻を寄せる猫は無邪気そのまま、意図せず、蟻の列を大きく崩してしまう。
 
 3

 コロナ、さらに大きく自然は意図を持っていない。ここで言う意図とは、人間が汲めるような意図である。ただ、自然には自然の法則があって、それはどうやら「生きる」ことのように思うのだ。当然、この考えも僕という人間が見出しているだけなので、そんなことはないのかもしれない。けれど、もし仮にそうだとするなら、前述の通り「生きる」ことはすべからく肯定されるべきである。人間の意図とは異なるからコロナを排除するのは傲慢に見える。

 列島は大荒れ蓮の花ひらく 金澤道子

 人間の事情など知らないように自然はやって来て、世の中は大荒れとなる。そんな状況でも無関係に花はひらく。人智を越えた自然の法則がある。掲句は極楽浄土に咲くという「蓮の花」が大荒れの状況下で開いたという。自然に意味を見出しがちな人間は、蓮の花を大荒れの世の中に対する救いとして捉えるかもしれない。だが、蓮の花にとってそんなことはどうでも良い。俳句は人の作るものであるため、完全に人の作為を抜くことは難しいが、掲句はその作為とも思える部分がいやらしくない。希望を見ようとする作者の眼のためだろう。

 鳴り出すや風鈴埃被りても 田村史生

 埃を被って、鈍い音しか響かせそうにない風鈴が高らかに鳴る。驚きとともに与えられる一つの理解、なるほど、予想は軽々と乗り越えられる。「鳴り出すや」で切られることで視線が心の方向へ向く。掲句は情報の出し方が巧みで、風鈴が鳴り出したという景を見せているようでありながら、重きはその瞬間の心の機微におかれているようだ。「ても」の言い切りも沈思黙考するようで気持ちが良い。心が暗く沈む瞬間ではなく、光の射しこんだ瞬間が捉えられている。

 こもるなんて人工的で不自然なことしてないで、人間も自然の通り自由に動き回って生きたらどうかなんてことは言えない。こもることは確かに意味のある、重要な選択だ。しかしそれで暗い気持ちになって、暗い句を詠むのではあまりに鬱々としている。やりきれなさを感じる。生を肯定して、暗い中にも光が射しこむような句を今こそ作るべきではないだろうか。ただ今の世情をうつす鏡があるとして、暗闇にぼんやりと姿が映るだけ、何度も何度もくり返し磨いたところでやっと気がつく。ああ、これが現在なんだなと。表面は確かにつるつると磨かれているが、真っ黒に等しい。そんな真っ黒な鏡を差し出したところで、どれほどの意味があるだろう。映された暗闇のなかにも、ぼうっと光りが宿っているような、そして光りが熱を持ち、まわりを照らし、鏡の前に立った者の眼を引きつけるような鏡、それが今必要である。

平野皓大(ひらのこうた)
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年5月、古志入会。第十一回石田波郷新人賞準賞。短詩ブログ「帚」 http://houkipoetry.com/

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