島に生きる季語と暮らす(41)母の日


 従兄の話によると、母が父と結婚した時、周囲から「玉の輿に乗った」と言われたそうだ。その頃壱岐には、まだ江戸時代の身分制度の雰囲気が残っていたようだ。幕末まで代々、壱岐を治めていた松浦藩の現地法人の警察庁長官をしていたわが家、長崎水上署長を退役して帰郷していた祖父。祖母の実家も代々勘定方の家……。近隣ではやや目立った存在であったろう。その長男と結婚するのだから、一応「玉の輿」ということになるのだろう。一九四○(昭和一五)年一○月一五日、二人は式を挙げ、翌日は夫の任地である中国・大連へ向かった。夫はいわば代々の“家業”である警察官であった。

 この連載でたびたび書いてきたように、時代は、開戦、敗戦、引き揚げと荒々しく突き進む。一九四七(昭和二二)二月、七年ぶりに壱岐に引き揚げてきた母は長男を亡くし、病弱な三男を背負い、次男の私を連れての命からがらの帰郷であった。夫は捕虜に捕られ、生死不明であった。幸い夫は帰国したが、帰国五年間は定収入がなかった。山を開墾し畑を作ったり、兎を飼ったり養鶏をしたり、いろいろの工面工夫をしたが生計はたたなかった。根を詰めた働きで、当時不治といわれた結核にもかかった。五年間続いた窮状は、母が独身時代にしていた教員に復職することで、一応落着した。

 子どもの私からみると、我が家の屋台骨を実質背負っているのは、父よりも母であった。事実、父は六○歳にも満たない若さで亡くなり、その後母は三○年間、家を護った。父の墓に参るとき「そげん早くにや、そっちに行きは得まっせん」と母は言っていた。母の特長は向日性、いつも笑顔だった。特筆すべきことは、いつも高所他所から客観的に観た公平な意見だった。弟、妹である叔父叔母は、何かあると「姉(ねえ)しゃんの意見ば聞いちみんと」と、大事にされ、周辺の人からも頼りにされた。その才はどこで養われたか不明である。芸事も好きだった。機織り、華道、書道、陶芸など器用であったし、努力するのが好きだった。書籍も本屋から取り寄せ、読んでいた。外国旅行も七度楽しんだ。どれも息子の私は遠く及ばなかった。

 母にとって最大の心残りは、私にあった。自分の代がそうであったように、先祖から預かった全財産を私に譲渡し、家を護って呉れることを願った。私もその使命を理解し一度は帰郷し就職したが、結局、Wターンしてしまった。母にとって大誤算だったろう。享年八四。私の言い訳はここでは省く。

   母の日の妣の歳時記手繰りけり   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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