島に生きる季語と暮らす(34)稲架

 農家にとって田植えと稲刈りを滞りなく済ますことは至上命題であった。老弱男女、猫の手も借りたいほどのいそがしさだった。田植えの時がそうであったように、子供たちに農事の手伝いをさせるために、小学校、中学校では、一時授業を休む農繁休暇があった。

 米は「八十八」と書く。それほど稲栽培は手間・暇、反復、忍耐が必要という意味だが、ここでは紙幅の都合でその詳細は省く。

 当時の私たちの米粒への信仰は、今となっては異常なものであった。日頃ギンシャリと尊称し、蹠(あうら)で踏もうものなら眼がつぶれると言われ、こぼせば一粒残らず回収させられた。飯粒は釜、茶碗、しゃもじに一粒も残すことが許されず、勿論、食べ残すことなどあってはならないことだった。私は今でも駅弁や弁当の裏蓋の一粒まで普通に完食する。

 私の子供時代の一九六○(昭和三五)年代頃まで、動力は牛のみで、農作業は完全に手作業であった。この労働の形態は、戦前はおろか江戸時代でも同じであったろうと思われる。わが家の田は片道約五キロのところにあった。そこまで何度かの厳しいアップ・ダウンがあった。牛を連れ、リヤカーを曳き、徒歩で通った。

 稲刈りには五つの工程があった。まず刈るのだが、いよいよ稲刈りを始めようという、その直前よく台風が襲来した。以前も書いたように壱岐は「台風銀座」といわれ台風のメッカであった。暴風雨は、実って頭を垂れている稲を、まるで大地に叩き付け、這わせるように吹き倒す。この台風のいたずらで平常の三倍の手間・暇がかかる。作業としては、まず乱暴に吹き荒れ、地を這う稲株をほぐすように丁寧に刈り取る。更に刈り取った束を藁でまとめて括る。

 第二の工程は干す。ここで持参の樹木や竹竿を組み稲架を作る。それは校庭の隅にある鉄棒のように出来上がった。私たち子供はこの空稲架が好きで、鉄棒遊びをした。この鉄棒状の稲架に刈り取った稲束を、馬乗りに二つ分けて乾燥させる。第三工程は収納だ。乾燥した稲を外し、リヤカーに積む。牛を曳き何度も自宅との間を往復する。子供たちはリヤカーの後を押す。当然のように稲を全部積み終えると、再び空稲架が現れる。子供はこれを待っており、また鉄棒遊びに興ずる。第四工程は脱穀。自宅に持ち帰った稲を天気の良い日に脱穀機に掛ける。最後の工程は、籾殻になった米を天日で乾かし、叺(かます)、俵に詰める。現在は一台で刈り取りと脱穀を兼ねるコンバインがあると聞くが詳細は知らない。私にとって稲刈りの思い出は、空稲架であり、坂上がりの向こうの空だ。

空稲架や子ら逆上がり前廻り     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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