島に生きる季語と暮らす(32)盆綱曳き

 夏の暑さもいよいよ盛りになるころ、村の青年たちは各戸を廻って、当然という顔で金品の寄付を要請する。金品の金は、文字通り現金、品は酒、焼酎、野菜、味噌・醤油、米などの食料品。それに藁、縄、青竹など。わが家は竹山があったので、なるべく太く長い物干し竿級の青竹を徴収して行った。青年たちは、近くの原っぱにテントを張り泊まり込む。昼間は暑いので夕方から作業に取りかかる。盆綱を作るのだ。

 まず青竹の枝を払い、大きな石で青竹を叩き割る。その裂け目に藁を巻き込み、覆う。その上を縄でぐるぐる巻きにする。この時点で割れた青竹を芯にした藁を巻き付けた“縄”が出来上がる。更に、このような“縄”を継ぎ足して一本三十メートル前後の“縄”にする。更に同様な“縄”を計三本こしらえる。最後にこの三本の“縄”を寄り合わせて、綯うと、直径六十センチ大の、青竹を芯とした藁巻の、三つ編みの頑丈な盆綱が出来上げる。

 盆綱は原っぱに大蛇のように横たわっていた。綱引きは夕方から夜に掛けて行われる。今でいう、ホームチームとビジターズに別れて曳く。都会に出て盆に帰郷している者、近隣の地区の力自慢の青年たちも駆けつけて来る。おまけに、わが原っぱ地形的に水平でなく、最初から一方が有利になるように傾いでいる。長年この不公平を当然のこととして曳いて来たのであろう。みんな酒が入っているが、誰一人文句を言わない。最初は粛々曳いているが、途中から勝手に飛び入りがあり、人数の公平性、勝負などはどうでもよく、とにかく参加することに意義があり、御利益があるとなった。終わると綱は大蛇がとぐろを巻いたように積み上げられた。子供たちは、このとぐろの上に登ることを愉しみにした。

 盆綱曳きは盆の前後に、地区ごとに開催日が重複しないように設営されていた。青年たちは今日はホームチームで曳き、明日はビジターズで曳くという苦しくも、楽しい日々であったと思う。夕方から青年たちが籠もりきりで生活を共にし、盆綱を作るという行為は、民族学でいうところの若衆宿的意味もあったし、なによりも通婚圏を広める役目があったと思われる。男衆の集まるところには当然のように女衆が集まった。春の青年団主催の運動会、秋祭りとともに、若者にとっては、盆綱曳きは、特にこころ躍る時期であったと思う。

 盆が近くなると、夕刻太鼓の響きがあちこちから聞こえてきた。少年の私でさえ、こころ浮き浮きとした。

  ふるさとの闇深くして一人盆   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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