島に生きる季語と暮らす(30)毒流し

 それはおぞましい光景だった。二度と見たくない場面であった。私はまだ小学校に上がる前で、父と壱岐にある長崎県で二番目に広い深江田原(ふかえたばる)を徒歩で縦断していた。伯母の家へ行くためであった。歩けど歩けど青田が続いた。

 道に沿って小川が流れていた。単調な徒歩に飽きて、私は何気なく小川を覗き込んで、驚愕した。そこには鮒、鮠、鯉、鰻、目高の魚類をはじめ蛙や昆虫など、川に生息していると思われる、生き物が根こそぎ浮いていたのである。その種類、大小の数に私は圧倒された。

 死体は、みんな川面に浮き上がり腹を出し、既にかすかに腐乱が始まっているらしく、死体の表面が初夏の光のなかで白濁していた。川の流れは緩慢だが間違いなく動いており、死体が次々続いた。多分何者かが上流で毒を流したのに違いなかった。この毒の名前を後に母から密かに聞いた記憶があるが、今はすっかり失念している。確か花の名前だったように記憶する。この毒流しの光景を初めて見たとき、幼いながら、私は瞬時に、これは人間が金輪際やっていけないことと思えた。後年、私は、ゼノサイド(民族などの組織的大量殺戮)、ホロコースト(大虐殺)という言葉を知ることになるが、まさに人生初めて見たおぞましい光景であった。

 私は鮒を釣るのが好きだった。風呂場に隣接してある天水を貯めておく大きなタンクに、多いときは百匹前後飼っていた。家の周囲にはやはり天水を貯めておく大きな瓶がいくつかあった。これに所謂蚊の幼虫、孑孑(ぼうふら)が湧く。そこで瓶に鮒を放つと見事に食べてくれる。同じ意図で近くの池にも鮒を放した。私は鮒は飼うのみで食べたことはない。

 大人の後をついて鰻採りに行ったことがある。まず三十センチの竹籤(ひご)を十本くらい用意する。これに“返し”のつかない釣針を括り付け、長さ約十五センチ、大人の人差し指大の蚯蚓を針先深くつけ喫水の石垣の穴に入れる。鰻は団地の一家よろしく、一穴(ひとあな)に夫婦、子どもの最低三匹は棲んでいるとされていた。事実一穴に三匹は獲れていた。鰻は体表がぬるぬるしているので、南瓜の葉で掴んだ。鰻を捕ったときの大人たちの歓声、はじける水音。今も私の心の中にある。だが一九六○(昭和三五)年頃、効率一辺倒の用水路が出来、鰻は姿を消した。

 最近、世界には独裁者と言われる人や私第一の考えが跋扈し始めているように思えてならない。そんなとき私は、あのおぞましい私の原点、毒流しの光景を思い出す。

これほどの骸の数や毒流    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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