島に生きる季語と暮らす(29)春愁

 五十年余前、壱岐ではまだ土葬であった。それぞれの家の庭の片隅には、文字通り人間が入るくらいの口幅の、丈一メートル強くらいの甕が底を天にして二〜三個並んでいた。老人たちは一様に「これは私が入る甕ばい」と誇らしげに指さした。その口調は、まるで覚悟は既に出来ている、その日が来るのが待ち遠しいとでも言っているようで、子供ながら、その大胆さに驚いた。人が死ぬとこの甕を洗い上げ、人骨が固まらないうちに、丁度母の胎内で生をうけたと同じ格好——両足を曲げ、両手で膝を抱く、いわゆる屈葬甕棺葬にした。

 当時冠婚葬祭は自宅で行った。式を司るのは、村で一番小さな単位の相互自助組織である組(くみ)の約二十軒の連中だった。大ざっぱに式の表舞台、神主への交渉、資材の手配調達などは男衆(おとこし)、霊前への供物、当日の全参加者への食事、肴の準備など裏方は女衆(おなごし)が仕切っていた。甕穴を掘る人は縁起のいい人、即ち、新婚者、子宝者、子牛の生れた家の者などに厳選された。喪主一家、一党は畏まっておればよかった。

 やがて甕は掘られた二メートル近くの穴に下ろされ、平たい石の蓋がされるが、ほんの小さい穴を空けたまま埋められた。喪主は家で一日死者と添い寝をし、埋葬後七日間、墓のそばで灯明をつけ通しで添い寝をした。夏場はよいが冬場の山中の墓での添い寝はこたえる。添い寝の際、先に小さく空けた穴から、毎日お握りを甕の中へ一個投入する。万一死者が生き返るかもしれないという配慮からであるが、喪主の七日間の添い寝が終るとともに甕棺は完全に密封された。

 四十九年前、社会人として初給料を貰ってすぐ、祖母、父が死去し、立て続けに喪主として帰郷して驚いたのは、土葬から火葬に変わっていたことだ。当然のように火葬場が出来、葬祭業が生まれ、老齢化という時宜を得て繁昌していた。

 私は、当時、時代の波として、火葬化は当然のことと思ったが、今、「土葬の人」と「火葬の人」とでは本質的に違うのではないかと思う。「土葬の人」は、大家族の中、貧しくも生涯働きづめめの人生だったかもしれないが、他人のことを配慮し、他人から配慮され、親と子供、親戚が地域に根ざし、共に助け合って暮らすことが、一番幸せであると体験的に知っていたのではなかろうか。彼らは死して自ら入る甕を、自信を持って指さすことが出来た。一方「火葬の人」である我々は……、今更ここでは愚痴はやめよう。我々は土葬から火葬へと続く社会において何を得、何を失ったのであろうか。

父母のもとしかばね届け春憂ふ    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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