島に生きる季語と暮らす(27)春の別れ

 敗戦から二年目、私たちは両親のふるさと壱岐島に引き揚げて来た。実家にたどりついてみると、我が家にはお婆さんが三人もいるのに驚いた。一人は私の直系の祖母であることは分かったが、隣に住む二人は何者か。私が成長後確かめたところ祖父の叔母に当たる姉妹、三重さん、八重さんであった。二人に共通することは、嫁いでも子に恵まれなかったこと。三重は離婚し実家に戻った。そこへ同じく子供を授からなかった八重が不憫に思い、一緒に暮らし始めたと思われる。ある寒い春の日、さようなら! さようなら! と言い合う、ただならぬ悲痛な呼び声を私は聴いた。これは今生の別れだということが五歳の私にも分かった。八重は婚家からの迎えのリヤカーに乗って帰って行った。ほどなく訃報が届いた。実家に残った三重も私が小学三年の早春、亡くなった。

 話はこれで完結していた。ところが二○○一(平成一三)年、私は勝野良一著『私説 三富朽葉伝』(文芸社)に出会う。この本の記述はやや危なかしいが、それまで私の中で散乱していた知識が脈絡を持ち符合し始めた。私はこの連載の第八回で、私から五代前、ペリー来航の一八五三(嘉永六)年に亡くなった住右衛門が、これからは神・天皇中心の新しい時代が始ると予見し、仏教徒から神道に改宗し、自分の娘たちを島内の有力な神官に嫁がせたことを述べた。八重はまさしくそのモデルのような人物であった。彼女の夫は隣村の名門、三富みとみ)家の長男。地元の村社国津神社、壱岐中央にある唯一の国幣社の格式を誇る住吉神社の神官を兼任していた。二人の結婚は順風満帆と思われたが、一つだけ弱点があった。それは世継ぎが生まれないことであった。幸い夫の弟に男児一人があった。兄弟の間では、この男児を跡取りにすることが固く約束されていた。

 男子は、暁星中学から早稲田大学文学部に進学、やがて文学にめざめ、新進の文学者として脚光を浴び始める。広辞苑には次のようにある。「みとみ‐くちは【三富朽葉】新体詩人。名は義臣。壱岐生れ。早大卒。フランス近代詩を研究。繊細哀婉な作風。銚子で溺死。(1889〜1917)」。そう、表記のとおり、急死したのだ。八重は東京まで葬儀に出かけた。八重が実家に戻って姉妹で暮らすまでには、悲しい前歴があったのだが、当時の私が知る由もない。犬吠岬には朽葉の歌碑があるそうだが、まだ訪れていない。私の心のなかには、老姉妹の顔かたちは今はすっかり消え去っているが、さようなら! さようなら! と呼び合う二人のの声だけは残っている。

   さよならのテープ七色島は春       靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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