島に生きる季語と暮らす(25)初写真

 そろそろ終活に着手しなければならない年齢になった。先日、古い写真を整理していて、一九七一(昭和四六)年一月二日、正月に母の実家に親戚のほぼ全員が集まった一枚が見つかった。約半世紀前、ここには今は亡き祖父母、母を始め叔母、叔父、その伴侶が健在で、従弟に当たる子供たちも面々いる。私が何か笑わせることを言ってシャッターを切ったらしく、みんな無防備に腹をかかえて笑っている。こんなに無防備に笑う表情を私は久しぶりに見た。そういえば、わが一族は、平凡な日常生活の苦しい中にも馬鹿ネタを見つけてよく笑いあった。この連載で何度も述べているように、当時、年中何かにつけて親戚は集まった。よく考えてみると、この写真はこれまで永々ときづいてきた三〜四世代同居という大家族主義、定住社会の残照を記録した記念すべき一カットと言えよう。

 私は島内の高校を卒業し、大学入学のために上京し、都内の会社に就職し、異郷の女性を伴侶に迎え、三人の子どもに恵まれた。いま子供たちは親の膝下を離れ、個別に国内外で暮らしている。後続の従弟たちも全部、私が先鞭をつけたように暮らしている。島外に暮らしていても、一昔までは伴侶は壱岐人というケースが多かった。わが家は父母から三代さかのぼり若き日に島外に暮らしているが、全員伴侶は壱岐人であり壱岐で没している。私の高校の同級生も三割くらいは壱岐人同士の結婚である。さすがに私より十歳前後若い従弟の代になるとこのケースは稀になるが、ともあれ、残る最大の問題は誰が故郷をまもるのかである。

 私は、両親が仕事で忙しいということもあり、爺ちゃん子、婆ちゃん子であった。祖父母にとっては私が孫第一号ということもありかわいがってくれたし、わたしもすっかりなついていた。祖父母が私に教えてくれたことは、子供にはやや古くさい言辞だが「天網恢々疎にして漏らさず」「正直者の頭には神宿る」、即ちオネスト・イズ・ベストということだった。

 この考えは私が生を受けた時は既に亡くなっていた母にとっては祖父、私にとって曽祖父の流れをくんでいると思える。彼は地元では名の知れた教育者、人格者だったらしく、村人から慕われていたらしい。母や叔父叔母の話の中に彼は繰り返し出てきた。私はこののち経済成長期下の一戦士として、朝から終電まで、月に二〜三日は徹夜をするような激務につくことになるが、残念ながら世の中の価値は、オネスト・イズ・ベストではなく、マネー・イズ・ベストに変わっていた。

   かの年の父は軍装初写真    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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