島に生きる季語と暮らす(23)椎の実

 私の人生において、詩心らしきものを最初に灯してくれたのは椎の実だったかもしれない。幸いわが家は先祖のおかげで近くでは寺山(寺が所有している山)に次ぐ広い山の持ち主であった。小学校に入る前のある日、私は自宅から三十メートルの山で椎の実を拾っていた。地面にはすでにたくさんの椎の実が落ちていたが、更に私の頭、背中に、雨、霰と降ってくるのであった。一升枡に一杯拾うくらい訳もなかった。

 一升枡で二十杯——即ち二斗くらい私が拾い集めたころ、母は町のお菓子屋に売りに行こうと言い出した。徒歩で往復十キロの道を母は二斗の椎の実を背負い、私とともにお菓子屋へ向かった。無事にお菓子屋に椎の実を買ってもらった母は、私を本屋に連れていき、生まれて初めて絵本を買ってくれた。確か『かぐや姫』だったと思う。それは今となっては、仙花紙という粗末な紙材で、絵本の色も貧しいものであったが、生まれて初めて買ってもらった、当時の私にとって甘美な魔法のような贈り物であった。椎の実を拾うと絵本を買ってもらえる、そんな不思議な繋がりがこの世にあったのだ。その後三〜四度くらい、お菓子屋に売りに行き、その度ごとに絵本を買ってもらった。椎の実は夢を誘う木の実だった。

 小学校に入って火を使うことを許された私は、拾って来た椎の実を焙烙(ほうろく)で炒ることを覚えた。七輪の上の焙烙に椎の実を入れると、やがて蓋を突き上げるように次々に弾ける。焙烙の柄を握り、揺らしながらかきまぜるが、その炒り具合が肝腎だ。あたりに香ばしいかおりが充満するころ、私は炒りあげ、妹や父母の分を残し、ズボン及び上着の両ポケットに、炒った椎の実を詰め込む。私の両腿、両横腹は、椎の実の余熱でほくほくだ。友達の家に遊びに行くと、ポケットから一握りの椎の実をあげる。椎の実は人と人とを結ぶ力もあった。

 上京した春、入学したばかりの学校の六大学野球の応援に神宮へ駆けつけた。なんと神宮の杜の木々は椎の木だった。私は幹に手をかけ、気抜けしたような、安堵したような気分だった。秋のリーグ戦、冬のラグビーの応援にも駆けつけた。郷里でしたように、樹下で天を仰いでみたが、残念ながら椎の実は一つも落ちて来なかったし、地面にも椎の実はなかったが、椎の大樹はこれから始まるドラマを求めて集まる人々を、じっと見つめているようだった。椎の木は、一見、何の変哲もない樹木であるが、私にとっては、胸をわくわくさせ続ける、幸せを呼ぶ、そして気になる、樹木、木の実である。

   椎の実の降るや故山の奥深く 靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

Be First to Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です