島に生きる季語と暮らす(22)眼白

 十月に入ると壱岐の少年たちは、忙しくなる。眼白(めじろ)シーズンの到来だ。眼白を捕り、飼うには二つのことが必要だ。まず捕獲のために鳥糯を作る。山に入り、日頃目をつけていた鳥糯(とりもち)の木から鉈(なた)の刃で樹皮を剥ぐ。樹皮には既に粘り気がある。笊いっぱいの樹皮を持ち帰り、平らな石の上に二〜三枚くらいずつ広げ、適当に水を加えながら金槌で微塵となるまで砕く。全部を砕き終わると拳骨くらいの塊となる。今度は自分のズボンの左腿の上を水に濡らし、鳥糯の塊を両手で二分するように引っ張り、その伸びた鳥糯をズボンの濡れた面に上下に転がす。すると微塵となった粗い樹皮が糯のなからはじき出される。これを何度も繰り返すと、粘りの純度が高い鳥糯の塊となる。

 二つ目は眼白籠作りだ。既に一年前から籠作りの素材である竹は陰干しにしてある。まず、文字通り寸分のちがいのない設計図を書く。その設計図に沿って、少年はそれまでの知識、正確さ、道具、美意識をもって、竹籤(ひご)や桟をこしらえる。そして自作の三ツ歯錐で穴を開ける。籤の削り、穴のあけ具合は微妙だ。事前にあれほど点検していたのに、実際に取りかかると不具合や誤りが発見される。何度もやり直し、修正して約一カ月前後かけて完成する。

 さて実際の眼白捕りだが「眼白押し」という言葉があるように、彼らは百匹前後の群れとなって樹木から樹木へと流れている。少年たちは日頃から彼らの流れを熟知している。眼白の流れが眼前に来る前に、鳥糯を巻き付けた枝を眼白の流れの中に仕掛ける。眼白はそうとは知らず、流れて来て、鳥糯の枝に止まる。すると頭を下にしてくるり鉄棒のようにぶらさがる。なぜかじたばたしない。少年は鳥糯の枝を取り寄せ、かかった眼白を掴み、眼白の足に付着した鳥糯を石油で拭いてやり、持参の眼白籠の中へ放つ。

 捕獲してからの眼白の世話は大変だ。主食は蒸かし藷だが、食べ易くするために、大根葉を下した汁で柔らかくする。その他眼白の好きな熟柿や木の実、粟、稗、砂糖水、毛虫などを揃える。今考えると、なぜあれほど眼白捕りや籠作りに熱中したか不明だが、鳥糯や籠作りにおいて、暗黙的に工芸的、職人的技術を競ったように思う。また自分が飼っている眼白こそが、美しい羽根を持ち、透き通る声を出すという、少年独特の自己顕示欲があったような気がする。眼白に関する熱は、小学生高学年から中学までで、高校に入ると急に薄れる。

   わが眼白妙なき声と知らで啼く     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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