島に生きる季語と暮らす(19)牛冷す

 私の少年期、一九五○(昭和二五)年後半から一九六○(昭和三五)年初頭の壱岐で、牛を飼うことは、いわば一財産を保持することを意味した。なにしろ当時動力としては唯一牛しかなく、田畑を耕したり鋤いたりするには牛に頼るしかなかった。

 牛が財産である二番目の理由は、子牛を誕生させ、成牛以前に売ると、当時の農家の収入としては比較的大きな収入を得ることが出来たことだ。三年に一度くらいの間隔で種付けをして、子どもを産まさせ、売買した。

ただ人間側に立つと、やっかいなことがあった。彼らは複数の胃袋を持ち、食欲旺盛であった。彼らの食欲に常に応え続けることは並大抵のことではなかった。彼らの欲求に応えることを少しでも怠ると、彼らはたちまち痩せた。

 大人たちは、飼葉、草を与えるほか、大豆、芋、粟、稗、雑炊などを与えた。大人たちの会話の半分は飼い牛についてであった。たとえば畑や道で牛に出会おうものなら、頭の前や尻の後ろに廻り品定めをした。「よう肥えちょるばい」が牛及び飼い主への最大のほめ言葉であった。

 壱岐の子どもたちは牛と仲良しだ。子どもたちは親たちのの牛への世話をいつもよく見ており、なにかと手伝っていたから、扱いに慣れていた。朝起きると牛舎に挨拶に行く。牛も応じるように近寄って来る。鼻はちゃんと濡れているか、涎は垂れているか、眼に輝きがあるかなど一丁前に確かめながら、餌を与えた。子どもたちは、下校すると、近くの原っぱや道野辺の草を食べさせに連れ出した。

 父が畑や田を耕やしたり、鋤くために牛を使い始めたら一時間以上、休みなく使う。牛は全身汗まみれ、泥まみんれになって懸命に農具を牽引する。勿論、父も牛に負けないくらい全身汗まみれ、泥まみれである。牛も人間もくたくたになって一仕事が終わる。一休みして、また同じ作業を繰り返す。

 夕方には牛も人間も精魂尽き果てる。その日の仕事が終わると、父は近くの池や小川に牛を連れて行く。自分のことはさておき、牛の全身を洗ってやる。子どもの私もついて行き、手伝う。「ああ、疲れたぞ」というように牛は、足元の水を飲み、ふうっ! ふうっ! と何度も荒息を立てる。疲れただろうと私が言葉を掛けると、牛は擦り寄って来て顎を差し出す。いつもの通り顎の下を撫でてくれという催促だ。私の愛撫に牛はとろけるように目を細める。洗い上げられた牛はさっぱりとした表情で牛舎に帰る。勿論餌をたらふく与える。
   
   冷し牛ねぎらひをれば甘えくる    靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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