島に生きる季語と暮らす(18)枇杷

 都会に生れ、育った妻と結婚して最初にあれと思ったことは、食後必ず「さあ、デザートを食べなくちゃ」と言うことだった。デザートは、食後に必ず食するものか、目の前にあれば、いつでも好きなだけ食べるもの、無ければ食べなくて済ますもの、また果物はなぜ無料で手に入らないのだ、というのが、当時の私の果物に対する基本感覚であった。

 私の子ども時代、果物は屋敷内、あるいは周辺の敷地に揃っていた。梅、枇杷、梨、蜜柑、金柑、柿、栗……、それも二〜三本、同じ果物でも種類が異なっていた。みんな採り放題、食べ放題だった。私は食後と意識して果物を食べたことはないし、意識的に数をかぞえて食したことなどない。ただ妹や祖母、両親の分を確保しておかなければ叱られた。

 妹がまだ幼かった頃のある夜、夜泣きをした。すると、どすんどすんと地へ飛び降りる複数の音がし、タッタッと誰か走り去る音がした。二人づれの梨泥棒だったのだ。元警察官の父は二人を追いかけ隠れている草むらに石を放ち、当たったらしい。翌朝起きてみると梨の木の大半の枝は折れ、囓った梨の実が散乱していた。ついに犯人は不明であったが、村の誰かが何かの用でわが家を訪ね、今、園田屋敷は梨が盛りであるという情報を広げ、二人が泥棒に及んだらしい。

 春が来たと私に実感させる果物は、玄関先にある枇杷の木であった。太陽の固まりのようなあの朱色。大粒の力強い種。大枇杷をもいで口に入れようとするが、子どもの口には大きくて入らない。仕方がないので、こじあけて種を取り出し、その後がぶりとやる。果汁が顎先から滴り落ちる。春の芳醇が鼻腔をつんざく。長じて口に入るようになると、食べ終え、最後に種を砲弾のように飛ばし、競った。
 今、帰郷してみると、半分くらいは以前のところに果樹はある。対面してみると、人間と同じように、予想外に大きくなったり、老いたりしている。現地に住む妹によると、それぞれ果樹は盛りを過ぎたのだろう。ほとんど果実は今実をつけないようだ。食べてくれる主が不在では、果樹も張り合いがないこともあるであろう。

 さて、果物において、私は今も内心忸怩たる思いが一つある。それは祖母の一言だ。「あなたが今食べているこの果物は、先祖が子孫のことを想って植えたけんよ。あなたも大人になったら、子孫のために果物苗を植えんといかんよ」と言われた。だが私は子孫のためにまだ一本の苗も植えていないのだ。

   大砲のごと口から放つ枇杷の種   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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