島に生きる季語と暮らす(16)運動会

 歳時記によって「運動会」は、春か秋かに分類されている。私が少年時代の一九五○(昭和二○)年後半の壱岐島においても、およそ、運動会は春と秋に計二度開催されていた。正確にいうと春の運動会は青年団主催の青年たちが活躍する大会、秋は小学校・中学校合同の子どもたちのための運動会であった。

 一九五五(昭和三○)年当時、浜名湖の二倍の面積を持つ壱岐島の人口は五万一千、十二カ町村があり、それぞれに小学校、中学校があった。高校も二校あった。(現在人口三万一千、一市四町、高校二、中学四、小学校一八)わが沼津村では、春に青年団の運動会が、四つの地区対抗で盛大に開催されていた。なにしろ近所や自分の兄ちゃん、姉ちゃんが激走、跳躍をするのだから、子どもたちは一心に応援した。大人たちも重箱にご馳走を詰めて集った。種目も短距離走から長距離走、リレー、高跳び、跳躍、投擲など、朝から午後四時ごろまで、競い合った。それぞれの覇者は村や部落のスターであった。

 私たちはいまテレビを通して、五輪や世界選手権大会、その他の大会で、メダルを獲った日本選手の満面笑顔や爽やかな声に接することが出来る。また惜敗して涙する選手に同情することが出来るが、その選手の表情は私がかって子どもの頃に青年団運動会で見たシーンと遜色なく重なる。運動会は、いわば青年たちの意気発揚の、花の舞台でもあったのだ。

 さて、この連載でたびたび触れているように、当時の壱岐には動力としては牛しかなかった。いきおい青年たちの存在は、公私ともに村や地区の宝であった。農耕における力仕事は勿論のこと、盆綱引き、村芝居、秋の祭礼、消防団活動、火の用心巡回等々……。すべて彼らが仕切り、一致率先して行っていた。従って彼らを見守る村人の視線は暖かった。

 ところが私が高校を卒業をする一九六○(昭和三五)年前後から、気がついてみると、春の運動会は中止となり、かって青年たちが携わっていた行事が行われなくなっていた。それよりも青年たちは長男を残し、次男、三男などの弟たちは、ごっそり姿を隠していたのだ。日本経済は一九五○(昭和二五)年勃発の朝鮮戦争により軍事特需の恩恵を受け、地方の若手エネルーの集結をもって、経済成長、工業化の道を辿ったと言われる。農業の機械化に呼応するように壱岐の青年たちも都市部へ収奪され、壱岐の農業、文化は疲弊への道を辿った。いま都会に暮らす私は、偉そうなことは言えないが、経済発展の正体、残酷さをふるさとの大地に立つとひしひしと実感する。

   奥方はあれよ韋駄天運動会   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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