島に生きる季語と暮らす(14)寒玉子

 敗戦後、壱岐に引き揚げてきたわが一家には五年間定収入がなかったことは、前号で述べた通りである。そんな窮状のなかで、どうにか一家の命を支えたのが卵——即ち養鶏であった。しかもその飼育責任は子供である私に課せられていた。

 朝起きると私は鶏のための食事を作る。米糠に水を注ぎ、野菜を刻み、混ぜる。それを二十匹ほど飼っている鶏舎に運ぶ。鶏はいっせいにむさぼる。わたしはそれが終わると、家族が待っている食卓につく。しばらくすると、あたりをひっくり返したように鶏が叫ぶ。産卵を知らせる声である。私はおもむろに鶏舎に戻り、産みたての、まだ母鶏の体温の残る卵を回収する。さっそく卵を割って、かき混ぜて卵かけご飯にする。しかし卵黄と白身は意志あるごとく絶対に混ざらない。長じて私は都会へ出て都会の卵と出会い、幻滅する。都会の卵は何のてらいもなく、自堕落に黄身と白身が簡単に混ざる。なかには血さえ入り混ているのもあった。以来半世紀、私は卵かけご飯をしたことがない。

 当時三日置きくらいに“卵買いのおじさん”が廻って来た。わが家の鶏は一日十個くらいの卵を産む。その卵の半分を家族で食べて、残り五個をこのおじさんに売るのである。おじさんは当然のように、大粒の、殻が頑丈そうな卵を高値で買う。そこで売り手の私も知恵を絞る。栄螺や鮑の殻を金槌で粉になるまで叩き、鶏の餌に混ぜる。カルシューム分の注入をしたつもりである。また稲穂が垂れるころになると、捕虫網のような手製の大きな網を作り、網が稲穂の上をかすめるようにして走る。蝗は驚いて飛翔し網のなかに飛び込む。捕獲した大量の蝗を持ち帰り、鶏舎の中で放つと鶏は飛び跳ねる蝗を嬉々として残らずたいらげる。 

 ところで「啐啄(そったく)」という言葉をご存じだろうか。『広辞苑』には(「啐」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、「啄」は母鶏が殻をかみ破ること)とある。あるとき雌鳥が抱いていた卵は一つを残し全部孵化したことがあった。その残り一個を私が掌の平にのせるとすぐ、卵の中から嘴が等間隔に殻をつつき始めた。丁度一周して自ら殻を破り、ひよこがすっくと立ち上がった。

 当時冠婚葬祭の程度によって、父の決断で鶏を潰した。その頃の壱岐には仏教の影響もあり、四足、即ち牛、豚、羊などを食べる習慣がなく、肉と言えば、魚と鶏であった。鶏の解体は、鰤の捌きと同じく男の役割であった。わが家では勿論私が行った。

     たらちねのぬくみまだある寒玉子  靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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