島に生きる季語と暮らす(12)餅搗

 ふるさとを離れて五十年。今つくづく思うことは親戚づき合いがすっかりなくなってしまったことだ。私の子供時代は動力と言えば牛のみ、あとは全部人力によった。そこで田植え、稲刈りを始め大事な農作業はほとんどが一族郎党が寄り集まって行ってきた。一族の結束が不可欠であったのだ。正月、盆、花見、お祭り……労働以外も何かと親戚が集まった。父方母方両方の祖父祖母、叔父叔母、従兄弟などが集まれば、すぐに二十人は越した。泊まりに行ったり来たり、今から思えば濃密なつき合いだった。

 この濃密な親戚つき合いを断ったのが、皮肉なことに農村社会の機械化だったと思う。それまでの人間が地べたに張り付くような農作業が機械化され、人力が余ってきたのだ。それと呼応するように都会は工業化し、地方の若年労働力を必要とするようになった。また進学熱も、結果として若者がふるさとを離れる契機を作ったように思われる。

 さて、親戚つき合いの濃密なころの基本に餅搗があった。子供の誕生、進学、結婚、作事、その他祝い事があると餅を搗き、親戚や近所に配り、みんなで祝った。暮れの餅搗は搗く量も特大で男の晴れ舞台だった。彼らは今で言う「マイ杵」を二〜三本持っており、それを担いで行き来した。臼が石製、木製かによって、杵も組み合わせが変わる。ちなみにわが家は木製、母の実家は石製であった。まず大釜に湯を沸かし、蒸気が漏れないように釜の上部の淵に藁製の甑(こしき)を敷き、その上に蒸籠を五段重ね、昨日洗った真っ白な餅米を入れて蒸す。やがて蒸籠(せいろ)は蒸気機関車のように白い湯気を噴き出す。頃合いを見て大人は蒸籠から蒸した餅米を片手で取り出してほおばる。子供たちはこの蒸し上がった餅米が好きで、せがんだ。

 搗きかた始めのサインが出ると蒸籠の餅米は臼に運ばれ、男達三人は勇んで杵をふるう。出遅れた男達は次の番を待つ。三人がしばらく搗くと二人が退き、搗き手は一人となる。ここで「ケイザシ」と呼ばれる女性が登場、彼女は餅の飛沫が髪に飛ばないように姉さんかぶりをし、搗いた餅に水を適度に加えながら、裏返す。搗き上がった餅は、揉み手の待つ広間に運ばれる。その餅を千切ったり、大きさを指示するのは祖母だ。まず神様、先祖、その他に捧げる餅を、順次千切り、大人達が揉む。やがて普通サイズの餅を揉む頃になって子供達にも配られた。餅の種類はいろいろあった。部屋という部屋の隙間を埋めるくらい大量で、秋口になってもまだ餅があった。

   目つむればうからはらから餅を搗く  靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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