島に生きる季語と暮らす(8)墓参

 以前私は郷里の新聞『ふれ太鼓壱岐』一九九一(平成三)年十一月二八日号に興味深い記事を見つけた。そこには「壱岐島内平戸藩諸士禄高(一五石まで。壱岐郷土館調べ)」という表があった。幕末まで壱岐は平戸藩が治めていたが、一覧はいわば壱岐を治めていた平戸藩幹部の給与表と言えた。その表によると、当時最高の受給者は、「八十石 柳田村 横田七郎左エ門」で、順次下段に目をやると「二一石 諸吉村 宇都宮圓左衛門」があり、「二十石 長嶺(ながみね)村 園田住右衛門」が続いた。宇都宮家は祖母の実家で、勘定方をしていたらしい。園田住右衛門がどうやらわが先祖のようで、代々馬廻り役、警察庁長官役をしていたと聞いていた。 私はその後帰郷して住右衛門の墓と対面するが、彼は明治維新に先立つ十五年前、ペリーが浦賀に来た一八五三(嘉永六)年に死亡していた。私はしばらく往事の感慨にふけっていたが、ある事実に気づき愕然とした。

 以前祖母から、わが家はある時から仏教から神道へ宗旨を替えた。その理由は不明であると聞いていた。わが家の一番古い墓は一七○二(元禄一五)年で、以後営々と約五十基の墓が並んでいるが、この内約四十基の墓碑は、戒名が刻まれ、西向き、所謂西方浄土を望む仏教徒の墓であった。一方墓地の奥、住右衛門を先頭にみな南側を向いて一列に並ぶ約十基の碑は全部本名がそのまま刻まれ、所謂神道の墓であった。住右衛門はわが家が神道へ改宗した最初の人として死亡していたのだ。その後、私は母や叔父叔母従兄弟の情報を基に家系図を作ってみて、更に驚いた。明治維新に直面した住右衛門の子ども、孫の世代(私の五代、四代前)の女性たちの幾人かは、島内の名だたる宮司の家に嫁いでいたのである。

 明治新政府は、それまでの仏教中心の政治から、神道へギアチェンジをし、天皇を中心とした政治へと大改革を断行したことは周知の通りである。そのため多くの僧侶が路頭に迷い、古刹、名刹は破壊され、仏像、仏具、絵画などが大量に海外に流失した。壱岐を治めていた平戸藩は、倒幕側、新政府側であった。明治維新に突入する前から、政権奪取後は、神道中心の政治を展開するという機運が倒幕側にあったのではなかろうか。住右衛門は来るべき将来を見越し、明治維新の十五年以上前に、自ら神道に改宗し、更に娘たちを神司の家に嫁がせたのではなかろうか。幕末、玄海の孤島、壱岐において吹き荒れた神道という大嵐。当時の日本列島全土にも猛威をふるったであろうと想わざるを得ない。  

   一門の一人となりて墓参かな     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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