島に生きる季語と暮らす(6)田植

 六月に入ると、いよいよ一年で最も忙しい田植えの時期を迎える。この時期をみんな「猫の手も借りたいほど忙しい時期」と言っていた。先にも書いたように小学校、中学校は全校農繁休暇に入る。子どもも田植えを手伝うためである。

 田植え当日は、我が家の親戚全員、土地の言葉で「家(け)ねえやっさ」一族郎党が集まる。そして、例えば本日わが家の田植えが済むと、明日は母の実家の田植えにそれぞれの親戚全員が集まる。更に翌日は、我が家から嫁いだ叔母の家に田植えに行く。こうして農繁休暇の三、四日の間に親戚全部の田植えが済む。以外に思うだろうが、壱岐は長崎県内で二番目に大きな作付け面積の田原(たばる)をもつ。また島全体が台地ゆえに広大な田が続くが、農繁休暇の短い間に島内の田植えはほぼ完了し、一面が植田に変貌する。

 あれから五十年、なぜあの当時、猫の手も借りたいほど忙しかったのかと今にして思う。そして弥生時代から蓄積した百姓の知恵に思いあたる。私の時代まで動力は牛のみで、他は人力しかなかった。そこで先祖たちは、田植え期間を意図的に短く設定する策にでた。いわばテンションを極度に高めて一族郎党結束し、一気に田植えを完遂するためである。この手を使えば秋の稲刈りも短期間に一挙に出来る。猫の手も借りたいほどの忙しさは、先祖からの叡智だったのだ。

 田植えの前日、女たちは徹夜同然で加勢に来る一族のために馳走作りに励む。いわゆる早苗饗のためである。そのとき必ず作るのが田植え団子(だご)だ。小麦粉を膨らした団子には小豆の餡がたっぷり入っていて、今の言葉で言えばスイーツであろうか。みんな朝早くから働いているので、午前十時には馳走を食す。昼には、植え終わった植田のそよぎを眺めながら、田圃の畦や広場でいただく。もちろん馳走はまず最初に田の神様に捧げ、人間どもはその相伴にあずかるのだ。

 私の本格的な田植えデビューは小学校高学年だった。赤い印が等間隔についている紐の前に植え手が一列に並ぶ。紐が新たに張られると大人たちはいっせいに機関銃を発射する早さで一時に十カ所以上植えるのだが、私は精々三カ所くらいであった。早く植えるのにはこつがある。左手に持った苗束の親指を細かく動かし四、五本を繰り上げる。その苗を右手で運び赤印に植える。植え終わると紐は一段手前に張られ、植え手は一段下がる。田の深さは膝まで、ときには大人の腰が埋まる深田もあった。雨が降っても挙行され、蛭に食われながら懸命の田植えだった。余り苗は持ち帰り神棚に捧げた。

   力ある種となれよと浸しけり   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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