島に生きる季語と暮らす(4)凧

 いま曾良の終焉の地、壱岐の島を訪ねようとすると、福岡県博多港から水中翼船に乗り一時間十分で着く。この島は幕末まで松浦藩(平戸藩)が支配していた。島には、いわば平戸藩壱岐出張所があり、それぞれの行政職があった。わが家は代々馬廻り役、警察庁長官の役を勤めてきた。

 明治の御一新となり、私の曾祖父は長崎市に呼び出され、巡査となった。ところが一八七一(明治三)年、いまは理由も些細な場所も不明だが、東京で殉職する。その後、祖父も長崎にのぼり同じ警察の道に進む。祖父はなんと順調に昇進し、定年間際の大正末期には長崎水上署長にまで達する。当時、長崎は横須賀、舞鶴と並び三大軍港であった。当然のように、父ら子ども五人は、全員長崎市生れである。祖父は定年で郷里・壱岐に戻ったが、そのとき、父は尋常小学校六年生であった。

 長崎は凧(はた)で有名だ。父が子供の頃、長崎で凧の洗礼を間違いなく受けたのだとわかったのは、私が初めて父から凧を作ってもらい、その揚げ方を教わった小学生のときだ。父の手繰りにかかると、右に走ったと思った凧が急に左に向きを変える。また天にあった凧が、まっすぐ地へ向けて落下すると思えば、地上すれすれのところで、また天に駈け上がる。自由自在だ。私はたちまち凧の作り方、その手繰り方をマスターし、その辺の少年の中では、一番の凧名人となった。

 壱岐には大人の揚げる「鬼凧(おんだこ)」がある。一本の青竹を芯棒とした通常畳三〜四枚のサイズ。なかには十畳のもある。背にはうなりを背負い、風を受けるとぶおんぶおんとうなる。日本の島々には、桃太郎伝説と同じく、鬼ヶ島・鬼退治伝説がある。壱岐島にも昔鬼が棲んでおり、その鬼退治に百合若(ゆりわか)大将が向かったという。凧には彼の七重の兜に、赤鬼が噛みついた勇壮な絵図が極彩色で描かれている。

 鬼凧は大人四〜五人かかりで揚げる。子どもが揚げる小さな無数の凧のなかで、うなり続ける大きな鬼凧の存在感は絶大だ。この凧は、季節が過ぎると、節分の「鬼は外」よろしく、各人の家の大広間の天井に釣られ、魔除けとなる。

 長崎県人は凧揚げが好きだ。凧を愛すビードロ会、東京長崎県人会などでは、毎年黄金週間の一日、多摩川の河川敷で凧揚げ大会を催す。約二千六百人が凧、ご馳走をもって集まる。そこでは市ごとに凧を揚げるが、ある年は無風であった。どのブースからも凧は揚がらなかったが、ただわがブースからのみ一枚の凧があがった。その揚げ手は私であった。

  大凧の居座っている深空かな     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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