島に生きる季語と暮らす(2)寒鰤

 結婚をして四十五年目を迎える。この間、私たちは暮れには必ず郷里、玄界灘の壱岐で獲れた寒鰤を一本贈ってもらってきた。十八年前に母を亡くしたが、その後は今年九十七歳になる叔父にずっと贈ってもらっている。

 壱岐人ならば、正月に鰤を食べないなんてありえない。この聖なる壱岐の鰤を年頭から食べて邪気を払い、一年を無事乗り切って欲しい、一族の者に鰤を食べさせずに正月を過ごさせるなど、ご先祖様に申し訳がないという訳だ。

 私の少年時代、一九五○(昭和二十)年後半、壱岐では農家でも小舟を所有していた。それには二つの重要な意味があった。

 一つは春になると、海底に藻が繁茂する。その藻を刈り取って、舟がもう少しで沈むくらいまで積んで帰港する。強烈な潮の香りにまみれて、ぐっしょり重い藻を、女・子たちは陸揚げして、港の広場で干す。その干し上がった藻を、やがて畑に持って行き、土のなかに鋤き込む。まだ化学肥料のなかった時代の貴重な有機肥料だった。

 二つ目は、鰤釣りのためだ。壱岐では冠婚葬祭では、鰤がなくては始まらない。男たちは前日、舟で鰤釣りに行く。そして間違いなく一〜二匹は釣りあげて帰ってくると、男たちはたちまち料理する。この鰤を釣り上げて、料理するまでは男たちの役割だ。いまでも我が家では、壱岐の男として鰤の料理は私がする。

 料理といっても、ほとんどが刺身である。壱岐では徹頭徹尾鰤は刺身で食べる。妻は金沢生まれ、金沢育ちで、やはり鰤の本場の出身だが、新婚の頃私が鰤を捌いていると、照焼用に切って頂戴と言れて、そんな小洒落た食べ方がこの世にあるのかと思ったくらい、私には鰤=刺身というイメージがしみこんでいる。

 壱岐ではなにかというと鰤が出る。客に鰤の刺身をたらふく食べて貰うのがまず歓待の手始めだ。私が帰郷すると、もちろん鰤の刺身の大盛りである。親戚連は私がうまそうに食べるさまをじっと見ている。そして最初にどんな言葉が飛び出すか固唾を呑んで待っている。「やっぱり壱岐の鰤は一番うまかばい!」と私が言うと、みんな一気に相好を崩す。 

 日本は、正月に鰤を食する地方と鮭を食べる地方に大別される。いわゆる鰤文化圏と鮭文化圏である。私も妻も幸い鰤文化圏のなかで育ってきた。今年も私たちは、壱岐の鰤を食べて息災に正月を迎えることが出来た。

  寒鰤の躍り疲れを待つ包丁     靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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