昨年、この連載を書くにあたって決めていたことがある。それは主宰の選を先に見ないということである。書き終えてから、選評を読むとやはり、はっとさせられる。ある意味、主宰と句会をやっているようなものである。しかし、扉に掲げられた今月の一句は見ざるを得ない。だから、これまで意図的に外してきた。しかし、今月はあえて、その巻頭句からとりあげたい。
稲光地獄の景を見せしめよ 大橋修
台風の被害状況であろうか。暗闇の中で襲い掛かる夜中の暴風雨はおそろしいものがある。ただこの句は時事的なものから脱している。作者はつまり、本来見たくはないものを、あえて見せろというのだ。人は見たくないものは見ない。むしろ隠蔽さえする。そういう人間に現実を直視せよといっているのだろう。また「景」という以上、そこには距離がある。たとえ、地獄の中にいるとしても、距離を保てと己にいっているようにも聞こえる。一読して思い起こすのは、柳田国男が『遠野物語』で書いた「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という言葉であったり、芥川龍之介の『地獄変』であったりするかもしれないが、包摂してあまりある感じがする。
白桃や天の川より届きしか 長谷川冬虹
天の川水をたたふる星一つ 長谷川冬虹
一句目で白桃を讃え、二句目ではこの水の星、地球を讃えている。多くの星では、水は氷になるか蒸発するかだ。とはいえ、水が液体にとどまれる環境の星は、天の川銀河の中にも数えきれないほどあるそうだ(二句目の「一つ」は数の一つではなく、この一つという意味であろう)。そもそも地球の水はどこからきたのか。隕石が運んできたという説がある。月にもかなり氷があるという説もあり、もしかすると月の誕生と地球が水の星になるのは、同じ出来事だったのではないか。想像がふくらむ。
住みにくくなりぬとみみず鳴きにけり 吉村スミ子
芭蕉は〈草の戸も住み替る代ぞ雛の家〉と詠んだが、住む人がかわるのではなく、住むところが変質していく時代なのである。大地を覆うアスファルトの上でもがいている蚯蚓をみたら、土に返してあげよう。
人生に虹のかかるも雨の後 井倉勝之進
まだ見ぬ「人生の虹」を待ち望んでいる人もいるだろう。五〇になった私もその一人。
大揺れの竹をなだめて伐りにけり 斉藤真知子
ほんとうに竹が伐られることを嫌がっているのかどうかはわからない。作者が伐るときに、あまりに竹が揺れるものだから、そう感じたのだ。「なだめる」という言葉が作者の心を伝えている。
青大将座敷を通りゆきにけり 小林弘道
「青大将」という言葉が存在感をもたらしている。風の通り道だろうか、薄暗い座敷の中を通って明るい外へするすると通りすぎていく。畳のこすれる音や匂いまでしてくる感じがする。
軽鳬の子の一羽は水を恐がりて 関きみ子
こういう一羽が種の生存においては貴重なんだそうだ。全羽が恐れ知らずであれば、全滅する可能性が出てきてしまう。人間もまた然りだろう。恐怖心は捨てればいいというものではない。
恥多きこの身を曲げて唐辛子 木下まこと
恥ずかしい経験ほど、忘れがたいものはないのではないだろうか。恥を赤といえば付きすぎだが、「身を曲げて」というディテールに焦点を当てたのがいい。
烏賊の目の睨める秋の俎上かな 林弘美
烏賊には白目と黒目がある。そのため、まなざしに表情が生まれることがある。烏賊のまなざしに気を留めるのは、やはり秋であろう。作者はこのあとどんな気持ちで包丁を入れたのだろうか。
流星や会ひにゆきたき人のゐて 池田良子
銀漢や生きて会ひたきひと一人 上條多恵
盆踊ひとりの人を見てをりぬ 吉冨緑
死者であろうと生者であろうと、人が人を思うことは変わらぬ心の営みである。そして誰にでも、とりかえのきかない一人がいる。
敗戦日生き残りたる骨と皮 片山ひろし
かの大戦による死者の半数以上は餓死者であったという。この「骨と皮」という言葉のかえがたさは、未来に伝えていかなければならないものだと思う。
◇
本号の投句欄には蟷螂の句が多かった。俳人が好む季語は多々あるが、蟷螂の人気はおそらくナンバーワンではないだろうか。
蟷螂よ孤独を生きる力持て 前崎都
蟷螂はモジリアーニの女かな 山中すみえ
蟷螂のゆつさゆつさと機嫌よく 西村麒麟
一茶の蟷螂の句にもこんな句がある。
蟷螂はむか腹立つが仕事かな
一茶は蟷螂がムカつくのだ。自分よりも弱い生き物をばりばり食べてしまうからだろう。しかし、一茶の句が面白いのは、それも仕事なんだよなと思うところである。
「働かざるもの食うべからず」とは恐ろしい言葉である。場合によっては、この言葉が呪いのようになって、人の心を苦しめることがある。働けなくなって家にひきこもり、そのまま餓死してしまう人もいるそうだ。
しかし、一茶の詠んだ蟷螂に立ち戻ると「食うことが仕事だ」ということに気付かされる。そして「食う」とは命をいただくということでもあるのだ。
わが家には小さなエコシステムの水槽があり、メダカとエビを飼っている。一匹だけ背骨が曲がったメダカがいて、それなりの泳ぎ方を駆使し、餌を食べ、水草の中で休み、長らく生きてきた。最近、水槽の底の方で横たわったり裏返ったりしていて、ついに死んだかと思って、棒で突いてみると泳いで逃げる。ところが、先日そのメダカにエビが近づき、尾鰭を掴んで口を動かし始めたのだった。それを見た息子が「自分だったらどうなんだよ」と怒りをあらわにするので、私はエビを追い払い、小さな網に背曲がりメダカを移してやったが、翌朝、曲がった背のままかたくなり、メダカは死んでいた。
息子はメダカに自分を投影し、エビにムカついたわけであるが、一茶のように、それをエビの「仕事」だといったらどう思うだろうか。たしかに、エビは有機物を分解する「仕事」をしているのである。おかげで、この小さな水槽の中であってもエコシステムが維持できているわけである(さらにいえば、少なくとも確かなのは、エビが水底で横たわるメダカを食べられるものとして認識したということである)。
一方、メダカにしてみたらどうだろうか。エビにムカついていたといえるのであれば、逆に楽になれることを感謝していたということもできる。ほんとうのところはメダカにしかわからない。これはまったく他人事ではなく、人間同士でも同じことがいえる。もはや、例を出すまでもないと思う。
本来、地球のエコシステムそのものが「生命維持装置」なのであるが、人類はそれとは性質のことなるシステムを築き上げてきた。しかし、世界規模でのシステム変更が必要な時期に来ていることは疑いようがない。経済だけではなく、倫理、道徳、宗教といったものも同時に見直さなければならない。日常の些細な出来事でも、そう思わせられることはたくさんある。
話が脱線してしまったが、俳句の話である。
自分が思うように他者が思うと思うことを「独我論」というが、感情移入や俗に「共感」といわれているものは、ほとんどが独我論を出ていない。しかし、独我論といって片付けられない問題がある。それは他者性をどうやって回復するかという問題だ。詩はそして俳句はそこに関わらざるを得ない。
たとえば、蟷螂の句もそうだが、俳句では擬人法が多用される。擬人法とは、動植物や事物、神仏を人間に対するように詠んだり、人間に使う表現を用いたりする修辞法だ。詳しく調べたことはないが、擬人法はかなり複雑である。安易に使うと陳腐になるから気を付けたい。
独我論と他者性、擬人法とアミニズムについて、しっかり考えておく必要がありそうだ。今回は紙幅が足りないので、どこかでもう少し丁寧に考えてみたい。
関根千方(せきねちかた)
1970年、東京生まれ。 2008年2月、古志入会。 2015年、第十回飴山俳句賞受賞。2017年、句集『白桃』[古志叢書第五十篇](ふらんす堂)。古志同人 。
Twitter: @sekinechikata
Instragram: @chikata
水槽にメダカを飼っていらっしゃるなんて素敵ですね。
息子さんにも忘れらない経験になるでしょうね。
さて、一茶の俳句ですが、千方さんは、一茶が蟷螂にムカつくと解釈されたようですが、私は「蟷螂はむか腹をいつも立てているようだが、それが蟷螂の仕事だな」と一茶が蟷螂に呼びかけている句と解釈します。蟷螂は、叢で我々人間に会っても,キッと鎌を振り上げますよね。ですから「蟷螂の斧」という言葉もあるくらいで、小さい虫ながら常に戦闘的で怒りを抱えているように見えます。一茶は、この蟷螂の性質にどこか自分と重なるものを感じたのではないか、私はそう思うのですが、いかがでしょうか?
リプライせずに、すみません。
うっかりしておりました。調べたら、
〈蟷螂はむか腹立を仕事哉〉
というバージョンもあるようですね。また、
〈かまきりやかんにん袋だう切た〉
〈蟷螂や五分の魂見よ~と〉
など、ほかの一茶の蟷螂の句をみると、
たしかに越智さんの解釈のとおりかと思います。