島に生きる季語と暮らす(26)スケート

 時は敗戦から二年目、一九四七(昭和二二)年の冬の夜、真昼のような月があった。私は四歳。場所は中国東北部、大陸への玄関口、大連市。わが家の官舎から俯瞰するように大通りが見えた。その夜大通りは水が撒かれ、スケートリンクに早変わり、たくさんの子供たちが歓声を上げていた。そこへ今まで聴いたことのない異様なエンジン音と不吉な地響き。子供たちは、文字通り、蜘蛛の子を散らすように四散した。やがて大型の異様な戦車約五十台とそれを警護するように、銃を持った徒歩の兵隊約二百人が続いた。ソ連兵の入城である。その夜から彼らは毎夜銃を乱射し、狼藉の限りを尽くした。

 わが家は、父を捕虜にとられ、病弱の二歳の弟と私、母の三人。兄は病死していた。母としては一刻も早く帰国したい気持ちだったに違いない。そこへ、念願の帰国の説明会を近くの小学校で行うという(実は偽の)一報が入った。母は出かける前に、私に絶対に玄関の鍵を開けてはいけないと言い残した。五分くらいして玄関から「坊や、ここを開けておくれ」と言う男の声がした。郵便受けから南京豆がぽろぽろ流れ落ち、土間に跳ねていた。私は南京豆に目がくらみ、母の諫めをすっかり失念し、鍵を開けてしまった。その頃私が足の裏に飯粒を付けて寝ていようものなら、鼠が布団の中に潜り込んできて私の足裏を囓った。毎朝鼠取り器に鼠があふれた。人間も鼠も極限まで飢えていたのだ。入ってきた二人組は日本人の電球泥棒だった。彼らは素早く部屋中の電球を外し持ち去った。以来帰国まで我が家は夜は真っ暗であった。

 それから二カ月後、私たちは引き揚げ船に乗ることが出来た。船が岸を離れると、それを待っていたかのように二人の男が大勢の男たちに、目をそむけたくなるくらい殴られ蹴られていた。二人は同胞を裏切り進駐軍に取り入っていたという。壱岐に渡る前日、福岡の寺で枕元においた防寒帽を盗まれた。中に貯金通帳の記号ほか金額を記入した布をぬい込んであった。生活の極限において、騙しが横行していたのだ。

 帰国後もいつも明るく振る舞い「出来ぬ堪忍するが堪忍」と言っていた母であったが、ある時母がめったに口にすることのない本音を聞き出すことが出来た。「中国人や朝鮮人は、どんなに困っても同胞を騙したり、裏切ることをしない。しかし、日本人は二人いると仲良くするが、三人なると必ず派閥を作る。平気で同胞を騙したり、裏切ったりする」。これは母の外地生活七年間に体験した悲しい実感であったろう。

   スケートのガッツポーズや肩で息       靖彦

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