島に生きる季語と暮らす(20)盆用意

 幼いころ、私はお墓好きのへんな少年であった。わが家から墓へは、徒歩三十歩のところ、すなわち屋敷に隣接してあったので、なにかと言えば墓参りをした。わが家の一番古い墓は一七○二(元禄十五)年である。以後約五十基あるが、いまは書き付けはまったく残っていないので、享保、宝暦、文化、文久などと刻まれた没年と戒名だけで、その人物を想像するより他はない。私がこの世にやっと生を受けたのに、彼らはすでに三百年も以前に生を終えている。どの人にも生の愛憎、四苦八苦があったはずなのに、おくびにも出さず座している。しかも、この五十基の全部と私は、今様に言うとDNAの繋がりを持つ。彼らのうち一人でも欠けると私はこの世にいない。先祖は一つずつ増え続ける墓に私と同じように拝み続けたはずだ。また私と同じこの風景を見、同じ土地に立ったに違いない。そう想うと、少年の私は時空を超えた不思議な世界に引きずり込まれるのだった。

 さて、盆が近づくと私は毎年憂鬱になった。我が家の墓は江戸末期まで独特であった。まず四メートル四方の広さに人間の頭大の小石が大人の膝の高さまでひき敷めてあり、その中央に墓碑が立っている。盆も間近かになると、山間を切り開いて設けた約五十基の墓に積もった落葉を、家族全員で石をめくりながら取り除く。一基あたり三十分以上かかる。しかも久々の人間の生き血に大きな山蚊も興奮し、たかり来る。なんでわが家の墓だけこうなのと私は文句を言ったことがある。祖母曰く「先祖は分限者(ぶげんしゃ・金満家)だったい」。規模は比べようもないが、エジプトの王、中国の皇帝、日本の天皇のように、生前から自分の墓を用意していたらしい。海辺へ行き頭大の石を持参すると誰にでも一升の酒を与えていたらしい。いやいやながらの墓掃除も、今から思うと、益もあった。掃除をしているとその人物について代々伝えられた話を聞くことが出来た。細かいことは失念したが「やさいしい人であった」「一度思ったことは諦めない人だった」「威張った人だった」など、言外に人生訓が含んでいた。

 ある墓の前にくると、失礼ながら、私は今でも笑ってしまう。彼は酒席で他人の刀を間違えて持ち帰ったそうだ。その挙げ句、武士の名折れと腹を刀でかっさばき海へ身を投げた。「百尋(ひゃっぴろ・腸)が縄が伸びたように海面に浮いちょったち」というリアルな表現が伝わっている。私は酒席ではいつも彼のことを思い、粗相のないように密かに気をつけている。

   相乗りの父母またがるや茄子の馬   靖彦

園田靖彦(そのだやすひこ)
1943年 3 月21日、中国、旧南満洲鉄道付属大連病院で生まれる。敗戦により1947年 2 月25日、両親の郷里、壱岐島(現長崎県壱岐市)に引き揚げる。2005年12月『古志』入会。『古志』同人。

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